宇久氏登場【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑥】

前回まで東アジア交易で五島が重要拠点となる様子を見てきました。

今回は、本編の主人公・五島藩主五島家のはじまりをみておきましょう。

宇久氏の始まり

じつは、五島氏の本貫地は、五島列島北端にある宇久島です。

宇久島、平成13年(2001)撮影空中写真(国土地理院Webサイトより) の画像。
【宇久島、平成13年(2001)撮影空中写真(国土地理院Webサイトより) 】

この島を領した宇久氏が五島氏の先祖なのですが、この宇久氏は、壇ノ浦の合戦で敗走した平家盛が宇久島に逃れ定着してはじまったとする伝説があり、宇久島の曹洞宗東光寺には平家盛以後7代までの墓が大切に守られています。(『長崎県の歴史散歩』)

いっぽうで、『寛政重修諸家譜』には清和天皇の孫である源経基の流れをくむ武田太郎信義の四男有義の後裔次郎信弘が文治2年(1186)に宇久島に山城を築いて宇久家盛と名乗ったのに始まるとしています。

このように、諸説があってはっきりしないとするのが妥当かもしれません。

宇久氏の発展

この宇久氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、肥前国松浦郡を拠点とする松浦一族と密接な関係を結んで、上五島一帯に勢力を伸ばすとともに、応永20年(1413)には宇久一族の一揆契諾をおこなって一族が惣的結合を図っています。(『日本地名大事典』)

さらに松浦一党に加わることで、中国や朝鮮半島との貿易などに活躍し、勢力を増して下五島にまで勢力を伸ばしていきました。

福江島進出

そしてついに、8代宇久覚(さとる)は永徳3年(1383)に宇久島から福江島の岐宿へと本拠を移すまでになったのです。

【福江島岐宿の城岳からの眺望】

その子9代勝(まさる)は嘉慶2年(1388)岐宿から深江(のちの福江)辰の口に城を築いて本拠としました。

この宇久氏の福浦移住と辰の口城の築城を弘治3年(1557)とする説もあります。

玉之浦納の乱と江川城築城

勝の治世以降、宇久氏は海外交易によって大きな利益を得てその勢力を確立したかに見えたのですが、16代囲(かこむ)の治世だった永正 4年(1507)に一族の玉之浦納が反乱を起こすと辰の口城は焼失し、当主の囲は自刃に追い込まれてしまいました。

その時わずか3歳だった子の盛定は母の実家・平戸に逃れ、15年後に玉之浦納を破って領地を回復し、大永 2年(1562)新たに福江の江川に城を築いて本拠としています。

この後、慶長19年(1614)まで6代90年間にわたってこの江川城が宇久(五島)氏の居城となるのです。

【グーグル・ストリートビューでみる江川城跡の碑(長崎県五島市栄町6-6-19、五島第一ホテル前)】

今回は、五島氏の先祖である宇久氏が発展する様子を見てきました。

次回は、倭寇の島として名をはせた五島をみてみましょう。

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