前回、ついに小笠原家の悲願だった城再建に着手し、天守閣だけが完成した勝山城。
はたして勝山城は無事に再建できるのでしょうか。
今回は、勝山城再建事業のゆくえを見届けましょう。
明和の工事
勝山藩主五代信房は、明和5年(1768)10月に工事を再開しました。
信房は父祖三代の悲願を果たすべく強い決意で臨みますが、藩財政が改善したわけではありませんでしたので、工事はなかなか進みません。
三年目でようやく藩主の居館と土居堀を作って二郭がほぼ完成までこぎつけました。
しかしここでまた工事は中断を余儀なくされます。
寛政の工事
寛政5年(1793)5月に江戸から勝山に戻った藩主長教は、再び工事に取り掛かりました。その時の長教の決意を、『小笠原家譜』はこう書き記しています。
「吾先人信房、三代の遺命を崇め、二の丸に遷居し、二郭ほぼ成る、余に至り二の郭の櫓台、三の郭の土居櫓を築き、南より西は是より漸々に修めんと欲す、苟も其終らざる所は、亦これを子孫に遺す」
全部できないのは当たり前、親から子、子から孫へとコツコツと築き上げていく。
財政逼迫の現実を考えると、長教の夢は現実的といえるのかもしれません。
しかし、なかなか思うようにいかないのが世の常、ここでも信じられない悲劇が起こってしまいます。
勝山城炎上
文政5年(1822)11月、城内より出火して、土蔵や堀の一部を除いて城の大半が消失してしまったのです。
町方ではさっそく寄合して普請を引きうけることとし、寺院や村々からも多くの見舞が献上されました。
その額は村方だけで1,300両という莫大な寄附、しかしその実態は、なかば藩からの強制でした。
文政の工事と廃城
これらの見舞金で、翌文政6年(1823)6月には御殿棟上げ式を執り行うことができたのです。
しかも、焼失前は藁葺屋根だったものが、今度は瓦と檜皮葺き屋根と、グレードアップすることができました。
再建にあたっては、領民の協力に並々ならぬものがあって、藩は町方から出された金子のうち265両について余ったとして返却、これは協力への感謝を表したのでしょう。
とはいえ、勝山城再建が進むことはなく、堀の泥をさらったり、崩れた石垣をなおす人夫の徴発もままならないありさまだったのです。
結局、このままの状態で明治時代に入ると、勝山城は未完のまま取り壊されて廃城となったのでした。
今回は、勝山藩小笠原家の悲願となった勝山城再建の行方をみてきました。
こうしている間にも勝山では、商品経済の浸透もあいまって、地域の姿が徐々に変貌しつつあったのです。
そこで次回は、そのことを端的にしめす大杉沢騒動についてみていきましょう。
《勝山城再建に関しては、『福井県史』『物語藩史』『日本地名大事典』『日本城郭大系』『越前及若狭地方の史蹟』に基づいて執筆しました。》
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