《最寄駅: JR総武線・東京メトロ半蔵門線 錦糸町駅》
勝山藩は、幕末に大名小路に上屋敷、本所横川端に下屋敷を構えていました。
今回はこのうち、かつての本所横川端、現在の東京都墨田区太平1丁目1・2、15番地にあった下屋敷跡を訪ねてみましょう。
(グーグルマップは勝山藩横川端下屋敷南西隅にあたる清平橋を指しています。)
出発地はJR総武線錦糸町駅北口です。
駅前ロータリーには、通称「クロワッサン」とか「ドーナツ」と呼ばれる『エコー』(へ音記号)像が目に飛び込んできました。
このモニュメントは、「音楽都市墨田区にふさわしいアート作品」として、さまざまな音楽モチーフで構成したものだそうで、ローレン・マドソン1997年の作品とのこと。
「おいてけ堀」
駅前ロータリーを北に進んで北斎通りで左に折れて、西に進みましょう。
ちなみに、この北斎通りはかつての本所南割下水のあとを埋め立てて道路にしたものです。
この本所南割下水の大横川より東部分をとくに「錦糸堀」とよんでいました。
一説には、岸堀と呼んでいたものを、朝日夕日がキラキラと映えて美しいことからこの名が出たともいわれています。
ところで、この錦糸堀は、本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」の舞台としても有名でした。
その内容は、「この堀で釣りをしていた人が帰ろうとすると、堀の方から「置いてけ、置いてけ」という声が聞こえてくる。これを無視して帰ると、いつの間にやらびくに入れたはずの釣った魚が消えてなくなっている。」というものでした。
このあたりは、いたるところに池や堀がある寂しいところだったようです。
この本所南割下水を関東大震災の後に埋め立てて道路としたものを、葛飾区ゆかりの葛飾北斎が堀近くで生まれたことにちなんで、墨田区が「北斎通り」と命名したのです。
津軽稲荷神社
北斎通り300mほどで錦糸1丁目の鎮守、津軽稲荷神社にやってきました。
この津軽稲荷神社は、もとこの地にあった陸奥国津軽藩中屋敷の屋敷神でした。
明治維新後に屋敷はなくなりましたが、今にいたるまで町の鎮守様として大切に守られています。
境内にある立派な石灯籠は、上野寛永寺から昭和32年(1957)に移されたもので、天保2年(1831)に下野国足利藩戸田家と丹後国峯山藩京極家から寄進されたものです。
長崎橋跡
津軽稲荷神社から北斎通りを西へ50mほど進むと、帯状に南北に走る緑地にぶつかります。
この緑地が大横川親水公園で、かつての大横川が流れていた場所です。
そして、北斎通りと大横川が交わる場所にかかっていたのが名高い長崎橋。
元禄10年(1697)に本所奉行の鈴木兵九郎と鳥屋久五郎によって創架されました。
長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋がいくどとなく架け替えられてきましたが、関東大震災で焼失してしまいます。
そこで、昭和4年(1929)6月に鋼トラス橋がかけられたのです。
大横川の水面に映る美しいトラス橋は、この街のシンボルとして親しまれていました。
大横川が埋め立てられて公園となったおりに橋も廃止されて、現在はモニュメントとして橋の親柱が残されています。
大横川とは
つぎに、大横川についてみてみましょう。
この大横川は横川ともいい、万治二年(1659)徳山五兵衛重政、山崎四郎左衛門重政の本所奉行によって、本所深川埋立を行ったとき開鑿されました。
大横川は当時、墨田区向島1丁目と吾妻橋1丁目との隅田川分岐点から東流し、北十間川に接する点から南下、木場5丁目付近において西へ曲がり、隅田川と合流する延長7.11Km、幅20ないし35mからなる江東区最長の河川です。
なお、江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられたといわれています。(江東区土木部河川公園課設置の説明板より)
清平橋
大横川親水公園を北に200mほど進むと、川がないのに橋がみえてきました。
これが清平橋で、関東大震災からの復興事業で、昭和4年(1929)にはじめて架けられました。
橋は清水町と太平町を結んでいましたので、町の名から一文字づつを拝借して命名されたそうです。
架橋時は38.97mをはかる三径間の鋼製ゲルバー橋でしたが、老朽化により平成23年(2011)に長さ100mのコンクリートの橋、プレステンション方式PC式単純床版橋に架け替えられています。
公園内には橋名板と旧橋の一部をモニュメントとして残して、橋の歴史を示していました。
勝山藩下屋敷跡を歩く
この清平橋東詰が、小笠原家本所横川端下屋敷の南西隅にあたる場所です。
それでは、横川親水公園から川の東岸へあがって、下屋敷の跡地を歩いてみましょう。
清平橋から上がって橋を渡って東西に走る道沿いに東への錦糸公園方面に進みましょう。
すると間もなく、錦糸一丁目交差点に到着です。
ここまでがかつての下屋敷ですが、下屋敷に接して9坪の辻番所があったというのは、この交差点の北西側、つまり下屋敷の南東角にあたるこの場所でしょうか。
今度は錦糸一丁目交差点を北の東京スカイツリー方面へと曲がって進みましょう。
およそ100mで道の右側にスーパーマルエツ錦糸町店がみえてきました。
この正面にあたる場所に、東西に走る小道があるのですが、この道が下屋敷の北端にあたっています。
この道を西に進むと、50mほどで行き止まり、道は丁字路となって旧大横川に沿って南北に走る道とぶつかっています。
かつての下屋敷はこのまままっすぐに大横川に境界が伸びていました。
下屋敷跡地は、住宅と小規模な雑居ビルな隙間なく並ぶ町となっていて、かつて下屋敷のあったころをしのばせるようなものは、残念ながら見当たりません。
大横川べり
つぎに、下屋敷跡地を違った方向からみてみましょう。
今いる場所から北に進むと、東西に走る大通りの蔵前橋通りにあたります。
これを左手の西方向に曲がって進むと、ふたたび大横河親水公園がみえて、蔵前橋通りを川跡に渡す趣のある橋がみえてきました。
これがかつて名橋とうたわれた法恩寺橋です。
橋の袂から大横河親水公園に再び下って、こんどは大横川から下屋敷跡地をみてみましょう。
大横川は中央に小川が流れ、緑の多い快適な散歩道として親しまれているようで、おおくの散策者が通る道となっています。
目を凝らすと、公園の両端にコンクリート製の護岸らしきものがみえますが、これがかつての大横川の堤防で、そのまま埋め立ててあるのです。
下屋敷跡も堤防が切れ目なく伸びていますが、江戸時代には堤防はつくられておらず、そのまま河岸として利用できたようです。
そう考えると、屋敷の西端が河岸として利用できるのですから、この屋敷はとても便利、蔵や会所を設けるには絶好の位置だといえるでしょう。
ここまで勝山藩大横川端下屋敷跡地を歩いてきました。
次回は、大横川親水公園で休憩しながら、次回は勝山藩江戸下屋敷についておさらいしてみましょう。
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