前回は、藩主長守の軍制改革を断行した藩主長守が、江戸大坂での警固役、さらに天狗党迎撃と、軍務に追われる様子をみてきました。
軍務には莫大な出費が伴うことはもちろん、幕府の命に忠実な勝山藩は、事態の急変についていけるのでしょうか。
そこで今回は、勝山藩の明治維新をみてみましょう。
京都警固役
そして慶応元年(1865)冬には京都の嵯峨・太秦方面の警備を命じられています。
このまま慶応2年(1866)も京都守衛を命じられて、慶応3年(1867)に兵式をオランダ式からイギリス式に変更しました。
さらに、慶応3年(1867)10月14日に大政奉還が起こると、そのまま藩兵は新政府の指揮下に入り、竹田街道の警備を命じられたのです。
勝山藩の戊辰戦争
慶応4年(1868=明治元年)1月3日、鳥羽伏見の戦いには官軍として参加、大和暗峠の守備について、敗走する幕府軍の兵を捕らえる任務に就きました。
明治元年(1868)9月には京都九門内の巡邏にあたったうえで、11月には鯖江・丸岡両藩とともに、敦賀港の警衛を命じられています。(『太政官日誌 第百六十 明治紀元戊辰冬十二月』)
このころは、敦賀港は北越や秋田の前線に兵員や物資を輸送する最重要拠点となっていましたので、勝山藩の警固も重要な意味がありました。
その後、東北地方の戦いには参加せず、新政府からの命で弾薬二万発を献上して恭順の意を示したのです。
こうしてみると、やはり小藩とはいえ徳川譜代の小笠原家勝山藩は、新政府からあまり信頼されていなかったのかもしれません。
弾薬の献上は、ありったけを新政府に引き渡すということですから、藩兵は戦闘能力を失うことに等しいように思えてきます。
しかし、長守はこれを逆手にとって好機にかえて、長年の懸案を一気に解決すべく動きました。
長守の藩政改革
要請されるまま警固役を引きうけ続けざるを得なかった長守ですが、多額の費用負担と軍事的緊張を利用して、藩政改革を一気に進めています。
慶応4年(1868)閏5月、長守は家臣に対して新たに「扶助の俸米」を定めて、旧禄210~300石の大身を俸米70俵にするなど、思い切った改革を行いました。
さらに、旧来の会所・御殿・諸役所を廃して公政館と改めて、家老・用人の称をやめて、新たに国政頭取・文武頭取・側向頭取などを置くという藩職制も刷新します。
こうして、人件費大幅カットと職制をシンプルにすることで、勝山藩が長く苦しんできた財政問題に終止符を打ち、なんと黒字化に成功したのです。
版籍奉還
明治2年(1869)2月に版籍奉還し、6月に勝山藩知藩事に任じられました。
この年の10月には、東京の幸橋御門の警固を命じられています。
長守の藩運営への意欲は続いて、兵式をイギリス式からフランス式に改めました。
廃藩置県
ところが、明治4年(1871)7月14日には廃藩置県が断行されて、勝山藩は廃止、勝山県がおかれて、藩主長守には上京が命じられました。
そして、あれだけ小笠原家がこだわってきた勝山城は廃城となり、土地建物から什器・家具類に至るまで払下げとなってしまったのです。
このうち、成器堂の門・講堂・演武寮・土蔵はそれぞれの買主が大切に保存しています。
ちなみにその後、勝山県はわずか4か月後の11月20日に福井県に併合されてしまいました。
さらに、足羽県、敦賀県、石川県を経て、明治14年(1881)からは福井県に属しています。
ところで、勝山藩の伝統は、ここで潰えてしまったのでしょうか。
じつは、勝山の人々は、形を変えて藩政時代の歴史を引き継いでいるのです。
それについては、最終回の第41回「走りやんこ」でみますので、お楽しみに。
次回は、上京後の小笠原家をみてみましょう。
《長守の親政と勝山藩の明治維新については、『福井県史』『林毛川』『日本地名大事典』『三百藩藩主人名事典』に基づいて執筆しました。》
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