7月23日は、化学 技術者宇都宮三郎が明治35年(1902)に亡くなった日です。
宇都宮の多方面にわたる活躍と幅広い人脈をみながら、現代へのメッセージを探ってみましょう。
舎密との出会い
宇都宮三郎(うつのみや さぶろう)は、天保5年(1834)10月15日に名古屋藩士神谷半右衛門義重の三男として名古屋車町、現在の名古屋市中区で生まれました。
諱は義綱で、のちに宇都宮に改姓し、明治維新までは宇都宮鉱之進を名乗っています。
植田帯刀に西洋砲術を学び、なかでも舎密(化学)に関心を持ち研究しました。
ペリーが来航した際には、警備のため江戸へ出て、下曾根金三郎門下として研究を深めるとともに、着発弾を開発して周囲を驚かせています。
その後、脱藩して安政4年(1857)幕府による化学分析にもとづく大砲合金の製造を指導し、はじめて金属素材の定量分析を行って評価を得ました。
第一丹鶴丸の江戸廻航
いっぽう、安政5年(1858)9月に紀州新宮水野家は、独力で洋書の内容をもとに、長さ31.8m、幅6.66mの規模の一之丹鶴(第一丹鶴丸)を完成させました。
ところが、進水すると船がひっくり返るという大失敗となってしまいます。
熊野川の河口から、なんとか勝浦まで運んだものの、船が傾いて乗員が激しく船酔いして航行不能となったために、宇都宮に江戸までの廻航を依頼したのです。
宇都宮は、石や砂利をバラストに使って傾きを解消し、改修を加えたうえ、浦賀を経由して品川までの航海に成功しています。
幻の献体第1号
文久元年(1861)より蕃書調所精練方出役となり、引き続いて開成所で化学を講義するとともに、陸軍所で摩擦管を制作し、欧米人を驚かせました。
さらに、第二次長州征伐では、新宮水野家軍に従軍して後方支援をおこなっています。
その後、大病を患い、戊辰戦争には参加していません。
この時、宇都宮は病の重さに死を覚悟して明治元年(1868)に「篤志解剖願」を作成して東京府に提出し、死後に遺体を解剖することを願い出ました。
背景には、なすすべなく幕府は瓦解し、かつての仲間たちが活躍する姿をみて、前途を悲観したからとも言われています。
しかし、宇都宮は回復したため、遊女の美幾が日本で最初の篤志解剖、つまり献体者となったのです。
また、日本ではじめて生命保険に加入したのも宇都宮といわれています。
多岐にわたる活躍
明治2年(1869)病気から回復し、大学中助教として開成学校に出仕すると、明治5年(1872)には工部省に移り、欧米へ視察に出かけました。
明治7年(1874)政府が深川に設置した摂綿篤(セメント)製造所でセメントの製造実験を行い、明治11年(1878)には耐火レンガの製造研究および耐火レンガ製造所の設立に力を尽くします。
ちなみに、明治16年(1883)には両社は民間経営となり、浅野セメント会社と品川煉瓦会社となっています。
そのほかにも、明治9年(1876)には、大阪造幣局でわが国初となる炭酸曹達の生産に成功したのをはじめ、陶窯業の改良や、藍の製造、竈の改良などについても貢献し、維新後の殖産興業に大きな業績を残しています。
明治17年(1884)工部大学技長で退官し、明治35年(1902)7月23日に死去、69歳でした。
秋山真之・柳川春三・福沢諭吉
日本海海戦を日本勝利に導いた名参謀・秋山真之の兵学の師でもありました。
明治32年(1899)頃に秋山は義兄青山芳徳らの海軍士官とともに宇都宮に師事して、甲州流を中心に日本古来の軍学を学んでいます。
秋山は宇都宮を「宇都宮先生はマハン将軍にも勝りし見識高き御方なり」と激賞、宇都宮も秋山の理解力と応用力を高く評価して、甲州流軍学の秘書『夜闘的書』を与えたといいます。
また、慶応3年(1867)に日本で最初の月刊雑誌である「西洋雑誌」を創刊し、magazine
をはじめて雑誌と訳したことでも知られる柳川春三は、宇都宮の親友でした。
同郷で年も近いことから、古くから交友していましたが、第一丹鶴丸の件で困っていた新宮水野家に宇都宮を紹介したのも柳川です。
さらに、柳川を介してのちに東大総長となる政治学者加藤弘之や、文人・成島柳北とも知古となっています。
また、宇都宮が蘭学者・桂川甫周と時に居候までするほど親しくしていたため、親友の柳川春三はもちろん、神田孝平、箕作秋坪、大槻磐渓、村田蔵六ら桂川邸に出入りしていた人々と交友を持ちました。
なかでも福沢諭吉は、福沢の親友・大鳥圭介が宇都宮の元同僚で交友していたこともあって、親密な間柄となります。
福沢が作った交詢社に勧められて入会すると、自宅を寄付、この建物が交詢社の社屋としてそのまま利用されたそうです。
このように、宇都宮は保険会社や交詢社など、社会的に価値があると認めた活動は積極的に支援しています。
宇都宮三郎に学ぶチャレンジスピリット
宇都宮の自叙伝『宇都宮氏経歴談』を読むと、幕末に流入する西洋の新しい技術を、手探りしながら理解し発展させていく宇都宮の姿が生き生きと描かれています。
そこには仲間たちとの試行錯誤、数々の失敗や偶然の成功が楽しく語られているのですが、よく読むと一貫した宇都宮の姿勢がみえてきます。
未知のものに遭遇すると、とにかくトライしてみるのですが、その前に注意深く観察して持てる知識で仮説を立てているのがわかります。
さらに、失敗すれば原因を探求し、再び仮説を立ててトライするところは、まさに近代科学の手順そのものといえるでしょう。
宇都宮が面白いのは、仮説すら立たない状況でも、とにかくやってみるところです。
こうして習得した知識は自身の血肉となり、そこから自然と自在な応用力がはぐくまれていきました。
そしてなにより、失敗も含めて楽しんでいるところが宇都宮の真骨頂なのかもしれません。
失敗を恐れないチャレンジスピリット、そして経験を糧として成長する宇都宮の姿こそが、多くの同時代人の心を打ったのではないでしょうか。
(この文章では、敬称を略させていただきました。
また、この文章は、『宇都宮氏経歴談』交詢社 編(木原寅吉、明治35年)、『秋山真之』秋山真之会 編集・発行、1933および『国史大辞典』『明治時代史大事典』『事典 近代日本の先覚者』の関連項目を参考に執筆しています。)
きのう(7月22日)
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