時は元禄15年(1702)、江戸本所松坂町吉良上野介屋敷、大石内蔵助良雄、赤穂浪士、四十七士・・・もうこれだけで、「忠臣蔵」と わくわくしてくる方もおられるのではないでしょうか?
赤穂浪士討ち入りは、江戸の泰平を驚かす大事件、そして江戸最大の大論争を巻き起こしたことでも知られています。
そして現在に至るまで、「忠臣蔵」は歌舞伎や浄瑠璃、講談など、様々な伝統芸能の題材ともなっていますので、みなさまもご存じかもしれません。
その発端となった場所が、東京都墨田区本所松坂町の吉良邸跡で、討ち入りの日に義士の遺徳をしのび義士祭が開かれます。
そして、その翌日には事件で犠牲になった吉良家の人たちを供養する吉良祭が行われるのです。
そこで今回は、吉良祭と元禄市に行ってきましたので、そのレポートをお届けしたいと思います。
【吉良祭・元禄市 目次】 その1:忠臣蔵をしのんでみましょう! ・ その2:元禄のにぎわいをしのぶ
忠臣蔵とは?
元禄15年(1702)、本所松坂町の吉良上野介屋敷に赤穂浪士47名が討ち入り、吉良義央を打ち取ったのが元禄赤穂事件です。
この事件、元禄14年(1701)3月14日に、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が幕府高家・吉良義央に江戸城松の廊下で刃傷に及んだことに端を発します。
その結果、浅野長矩は切腹、播州赤穂藩取り潰しという処置が下された一方で、吉良上野介には処分はありませんでした。
これを不服とする旧赤穂藩士47名は、家老大石内蔵助を中心にして元禄15年12月14日夜半に吉良邸に乱入、吉良義央を討ち取ったうえ首印をあげて、浅野内匠頭の墓前に供えて仇をはらしたのです。
その後、上は将軍から下は庶民までを巻き込んだ喧々諤々の議論の末、赤穂浪士たちは義士と呼ばれて顕彰されるものの、切腹の処分とされたのでした。
事件は江戸のみならず人々の心に強く残って、事件を題材とした二世竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が空前のヒットを飛ばした結果、事件全体を「忠臣蔵」と呼ぶようになったのです。
本所松坂公園(吉良邸跡)とは どんな場所?
赤穂浪士討ち入りの舞台となった吉良邸跡の一部が、昭和9年(1934)に地元有志の寄付により公園化されたのが本所松坂公園(吉良邸跡)です。
義士祭と吉良祭
公園が整備されて以降、毎年討ち入り決行日の12月14日には赤穂義士を顕彰し供養するために義士祭が開かれています。
そして戦後、討ち入りで犠牲になった吉良家の人びとも供養すべく、14・15日に吉良祭が行われるようになり、現在まで続いているのです。
残念ながら義士祭には行けず、翌12月15日に行ってみました。
まずは吉良祭、公園内にある討ち入りの際に犠牲となった吉良家の20人を祀る祠と、吉良上野介の首を洗ったという「御首級(みしるし)井戸」に詣でるのですが、結構な人だかりで渋滞が発生、私も並んでお参りしました。
そして、数年前にできたという吉良義央像に進みます。
吉良家の菩提寺、愛知県西尾市吉良町にある華蔵寺に伝わる像をコピーしたものだそうです。
義士祭・吉良祭には、赤穂事件で対峙した愛知県の吉良町と兵庫県赤穂市がともに後援に名を連ねるだけでなく、牛島神社宮司によるお祓い時には、地元の墨田区長さんと両地の代表が一緒に参加するのだと聞き及んで、なんだかちょっとほっこりした気分になるのでした。
そういえば、15年ほど前に来たときは 公園内がもっとさっぱりしてたような気がします。
井戸の名もずばり、「首洗い井戸」だったと思います。
公園は全体に整備が進んでグレードアップしたように思いますが、隅々まで美しく掃除が行き届いているうえに、植栽にも手をかけていて、地域の方々が公園とお祭りを大切に守り育てているのがうかがえるのです。
立派な海鼠塀に黒門、風にはためく幟に菰樽と、ちょっと江戸の昔を感じる、とても風情のある景色を目にすると、うれしい気分になってきました。
鼠小僧の墓がある本所回向院にほど近いこともあって、江戸情緒を求めて散策する人たちが多いようです。
今回は吉良邸跡の様子をお伝えしました。
次回は、周辺の路上で行われている元禄祭をレポートしたいと思います。
【吉良祭・元禄市 目次】その1:忠臣蔵をしのんでみましょう! ・ その2:元禄のにぎわいをしのぶ
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