前回まで江戸時代後期までの喜連川藩の歴史を見てきました。
今回、いよいよ幕末の喜連川藩をみるのですが、その前に、喜連川(足利)家が領した喜連川がどのような場所かを改めて見てみましょう。
喜連川ってどんなとこ?
喜連川は下野国の中央やや東北に位置し、北西から東南方向に緩やかに傾く喜連川丘陵に囲まれた土地です。
この喜連川旧領の中を南東方向に流れる荒川に、内川と江川が合流する小盆地で、喜連川の町は荒川と内川の合流点近くの段丘上に作られました。
古代から東山道が通り、中世も「義経記」や「廻国雑記」に記される交通の要衝でしたので、義経をかくまった奥州藤原氏と鎌倉の対立が深まっていた文治2年(1186)この地に喜連川城が築かれています。
喜連川の語源は狐川に由来するといわれ、藤原定家の子為家に「とにかくに人の心の狐川かけあらわれん時をこそまて」(「夫木抄」)あるように、歌枕の地でもありました。
宿場町・城下町
江戸時代には奥州街道の宿場町であると同時に喜連川藩の城下町として発展していきます。
いっぽうで、喜連川は奥州街道の宿場となりますが、その助郷が藩内の村々に課されてその負担に苦しむことになりました。
さらに、前回みたように喜連川藩は諸役免除とされたものの、実高に見合わない高い家格を維持する負担も少なくなかったのは言うまでもありません。
ここで喜連川藩の石高を見てみると、「旧石旧領」によると下野国塩谷郡6,518石余、芳賀郡1,234石余の計7,753石となっています。
また「藩政一覧」によると幕末から明治初めの状況は、表高(公称高)5,000石に対して実高10,290余石(田5,694石、畑4,515石)、平均収入が米1,788石余、永102貫、銭1,051貫余、大豆102石余、稗82石、荏1石余、胡麻1斗余、小豆1斗余。
同じく村数17、戸数683、人口3,602人、そのほかに士族171人、士族の家族433人、社家9軒38人、修験4軒16人、寺院11ヵ寺92人となっています。(以上『角川地名大辞典』)
喜連川藩は石高わずか5,000石で財政基盤がぜい弱なうえ、独自の産業もないという状況にありました。
しかも領内を流れる荒川や内川は氾濫を繰り返すという悪条件が重なって、藩財政は自然と慢性的な赤字に苦しむことになります。
高すぎる家格の影響なのでしょうか、もともと石高に比して家臣数が多いために家禄も微禄の者が多く、家中の者が地主や自作、さらには小作などを行わなければならない状況になっていました。
このような中で、先に見たように喜連川が奥州街道の宿場町であることに伴う助郷の負担がのしかかってくるうえに、江戸時代の商業発展に伴う商品流通経済の浸透も相まって、領内の農村は疲弊の一途をたどることになります。
この状況は年々積み重なって農村の荒廃を招き、それが農村人口の流出を招いて藩財政を悪化させる、それがまた農村へのしわ寄せが及んで、その荒廃が一層深まる、という悪循環に陥ってしまいました。
ですので、早くも四代藩主昭氏の時代から家中借り上げがはじまりましたし、八代恵氏の治世から藩政改革を試みるも頓挫するといった具合に悪循環から抜けられず苦悩する日々が続きます。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
この藩政改革待ったなしという厳しい状況で登場したのが第十代藩主煕氏でした。
喜連川(足利)煕氏(ひろうじ:1812~1861)
文化9年(1812)九代藩主彭氏の二男として生まれ、文政13年(1831)11月28日父・彭氏の隠居にともなって家督を相続し十代藩主となりました。
ところがそのあと天保飢饉が発生、喜連川藩の領内農村も大打撃を受けて危機的状況に拍車がかかります。
そんな中で、煕氏は積極的藩政改革に着手したのです。
煕氏の藩政改革
まずは現状把握が大切と、天保2年(1831)領内を巡察し、80歳以上の者に金若干を与えます。
領民の心をつかもうと考えたようで、天保4年(1833)には領内貧民93人に一年分の服を与えていますし、天保5年(1834)には再度領内を巡察し、天保年間に起こった喜連川騒動の功労者の子孫に木杯を与え、80歳以上の者や孝子・力田者に金若干を与えるとともに窮民に稗籾を与えました。(『藩史大辞典』)
これは、歴史的な縁や儒教道徳を使って領民と藩主の関係性を良いものに強化するねらいがあるのでしょう。
さらには、天保10年(1839)十二月義倉掟書を定めて、この年より毎年領主は五十俵、領民は二百五十俵の籾を義倉に納めることとします。
くわえて天保13年(1842)には御用堀と横町堀の用水堀を再開鑿して新田開発を行うとともに民正機関として「農正」を設置、さらには検地を断行しました。
改革頓挫
ところが、改革の成果はなかなか目に見える形で現れず、このために領内に不満がたまっていきました。
天保15年(1844)には旧家や役職を務める家格を決めるなどして家中の再編成を行ったり、弘化2年(1845)藩校「翰林館」を設置したのも、下士の間にたまった不満を抑える狙いがあったのかもしれません。
しかし下士を中心に家臣の不満は高まり続けて、弘化4年(1847)には藩内で重役を誹謗する落文が出される始末に。
これをさらに抑え込もうと、嘉永元(1848)には家中の家格を定めて、古河・上総に足利家がいた頃からの家臣に家格禄を支給する秩禄の制を定めたのです。
これでは家中の対立は収まるはずもなく、検地を強行しても成果は出るはずもありません。
養嗣子出奔
そんななか、嫡子に恵まれなかった煕氏は、嘉永3年(1850)に肥後国熊本藩主細川斉護の五男良之助を養嗣子に迎えました。
これは、細川家からみて足利家は、室町時代には主家に当たっていますから、むげに断ることが出来なかったのでしょう。
ところがこの良之助、藩財政のひどさに辟易したのか、家中の雰囲気の悪さに嫌気がさしたのか、嘉永5年(1852)に出奔して熊本に帰ってしまうという事件が発生します。
このこと自体は改めて細川斉護の又従弟、宜氏を養子とすることで解決しますが、喜連川藩が置かれた状態を端的に示すものとみてよいでしょう。
そしてやはり、嘉永6年(1853)には、「家中において、茶碗洗いの件から上・下士の対立が表面化」してしまうのです。(『藩史大辞典』)
藩政改革の失敗
この年、ペリーが開国を求めて艦隊を率いて来航し、激動の幕末がはじまるわけですが、ここ喜連川藩においては、家中騒然としてそれどころではありませんでした。
こうして煕氏の藩政改革は、完全な行き詰まりとなったのです。
たしかに、藩の規模があまりにも小さいうえに藩政改革実施の財政的裏付けがほとんどない状況でしたので、大きな改善を望むのは無理があったのかもしれません。
さらに、前にみたようにもともとは藩士のほとんどが微禄で上下の差がなかったにもかかわらず、家格禄という復古的な身分秩序を制度化したことが、上士と下士の対立を生み出すという最悪の結果を生んでしまいました。(以上『角川地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
こうした状況ですので、煕氏の藩政改革もほとんど効果がない結果に終わって、藩財政は破綻へとひた走ることになったのです。
改革失敗のなかで煕氏は文久元年(1861)50歳で没すると、その後を継いだ養嗣子第十一代宜氏(よしうじ:1838~1862)も在任わずか半年の文久2年5月、弱冠29歳で病没してしまいました。
何度目かの存続の危機を迎えた足利(喜連川)家、果たしてこのピンチをどう乗り切るのでしょうか?
次回はその後の喜連川藩をみていきましょう。
コメントを残す