足利家の復活【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ③】

前回、ついに断絶してしまった古河公方、しかし名門足利家はこれしきの事では滅亡しません。

今回は足利家の復活と喜連川藩の誕生を見てみましょう。

「太閤秀吉」(『肖像 一之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「太閤秀吉」『肖像 一之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクション  足利家再興の立役者、豊臣秀吉】

初代 喜連川(足利)国朝(くにとも:1572~1593)

天正18年(1590)小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、「関東仕置」のため下野国宇都宮に下向したときのこと。

秀吉は名家・足利家の断絶を惜しみ、喜連川城主塩谷惟久の室で足利頼純の娘・島子の願いを聞き入れて、国朝の足利家家督相続を許すとともに、義氏の娘である氏姫と高基の弟・義明の孫である国朝の婚姻を許可したのです。

この時、秀吉が島子に与えた下野国喜連川の3,500石余を与えて、足利家を再興させたのです。

しかし、文禄2年(1593)国朝が肥前国名護屋城に向かう途中に安芸国で病没、その齢わずか22歳でした。

この国朝の死については、足利家独自の口伝があって、子孫の足利惇氏は以下のように伝え聞いたと証言しています。

「秀吉の朝鮮出兵の際、手勢二三千騎を引き連れて喜連川を出発、東海道から中國筋を行くままに三河あたりからその軍勢が雪達磨式に膨れ上がり十数万になったと云う。まだ家名地に堕ちずと云った情勢に秀吉はすっかり内心に畏怖を抱き、安芸の海田市で彼を暗殺させた。」(「足利家衰老記」)

古河公方館址(Wikipedia掲載のIbaraki101c撮影写真、20210529ダウンロード)の画像。
【古河公方館址(Wikipedia掲載のIbaraki101c撮影写真、20210529ダウンロード)】

二代 喜連川(足利)頼氏(よりうじ:1580~1630)

先に記したようなことがあってうしろめたかったのか、秀吉は国朝が急逝すると、今度は氏姫をその弟・頼氏と再婚して家名を存続させています。

このことから、秀吉が単に名家断絶を惜しんだだけではなく、ほかの意図、例えば、いまだ関東に残っていた古河公方の威光を利用して自分の株を上げるだとか、関東に移封した徳川家に対して足利家は宗家になるので何かの重しになると考えたのか、さまざまな意図を読み取る説も唱えられてきました。

また、頼氏は居所を古河から喜連川に移すとともに、喜連川の姓に改めましたとされますが、これを次代の尊信の時代とする説もあります。

その後、頼氏は姉の島子に二百石を分与しました。

徳川家康画像(Wikipediaより2020.8.26ダウンロード)の画像。
【徳川家康画像(Wikipediaより)】

また、慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原合戦に勝利して凱旋すると、頼氏は使節を送ってこれを祝賀します。

家康はこれに答えて、一千石を加増するとともに無位無官のまま親王に匹敵する四品・十万石格を与えました。

こうして喜連川(足利)家は幕府から他に類をみない数々の特別待遇を与えられていますので、それらをちょっと見てみましょう。

喜連川(足利)氏

「足利家が昔日の面影なく落ちぶれた」のだけれども、その一方で「徳川家は禄高を無禄として実際的収入は一万石以下にすぎないが、十万石以上の格式を以て幕府では大広間の待遇を与えた。とにかく喜連川左馬頭として奥州街道では伊達家よりも上の格式と気位でいばっていた。」(「嫌だった子供の頃」)

江戸時代、足利家は名を喜連川に改めましたが、幕府はこの喜連川家にさまざまな特別待遇を与えています。

それは、無位無官であるけれども、①「国住まい勝手」で参勤交代の義務がない ➁諸大名に課せられた「諸役御免」③領有高は五千石でも「高無」の扱いという他に類をみないものでした。

これを指して、喜連川氏を「天下ノ客位」「無位ノ天臣」「喜連川公方」「五千石国主」と称されることもあったのです。

大名なのに実石わずか五千石、しかも徳川家の家臣ではないという不思議な藩が誕生しました。(『藩史大辞典』『角川地名大辞典』)

昭和22年撮影喜連川附近空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R483-102〔部分〕) の画像。
昭和22年撮影喜連川附近空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R483-102〔部分〕)

三代 喜連川(足利)尊信(たかのぶ:1619~1653)

尊信は、元和5年(1619)頼氏の嫡男義親の長男として生まれました。

寛永7年(1630)には父義親が早世したために幕命により嫡孫承祖して家督を相続しています。

この尊信が、寛永7年(1630)頼氏が没して家督相続した際に、居所を古河から喜連川に移すとともに、喜連川の姓に改めましたのです。(異説あり)

このことが、もともと内在していた家臣内の対立を激化させて、ついに慶安元年(1648)には家臣団が二階堂と高氏の二派にわかれる抗争に発展して「喜連川騒動」が勃発してしまいました。(『寛政重脩諸家譜』『角川地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)

「徳川家光」(『日本歴史図録 第10輯』歴史参考図刊行会編(歴史参考図刊行会、大正6年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「徳川家光」『日本歴史図録 第10輯』歴史参考図刊行会編(歴史参考図刊行会、大正6年)国立国会図書館デジタルコレクション  喜連川騒動の時の将軍は三代家光。さすがの家光も、足利家の家格が高くて取り潰せなかったのでしょうか。】

喜連川騒動

なんと、正保4年(1647)、尊信に反対の意見を持っていた城代家老一色刑部らが藩主尊信を幽閉したのです。

これにより家中騒動が勃発、藩内ではいかんともしがたいと感じた尊信を支持する二階堂又市らが幕府へ訴訟を起こして対抗しました。

幕府による詮議の結果、翌慶安元年(1647)評定所の裁定が下されて、一色刑部らは伊豆大島に流罪、二階堂又市は白河藩主本多能登守預けとなりました。

さらに、幕府はその責を問い尊信に隠居を命じたため、すぐさま尊信は嫡男昭氏に家督を譲り隠居したのです。

よほど騒動がこたえたのか、尊信はその後、承応2年(1653)弱冠35歳で没しました。(『藩史大辞典』)

その後、四代昭氏(あきうじ:1642~1713)、五代氏春(うじはる:1670~1711)、六代茂氏(しげうじ:1700~1767)、七代氏連(うじつら:1739~1761)、八代恵氏(やすうじ:1750~1761)、九代彭氏(ちかうじ:1771~1833)と安定した藩政が続きました。

そして、彭氏のときに五百石の加増を受けて、五千石を領するようになります。

ここまで江戸時代後期までの喜連川藩の歴史を見てきました。

次回では、いよいよ幕末を迎える喜連川藩をみてみましょう。

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