喜連川藩池之端屋敷を歩く【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ⑪】

《最寄り駅:地下鉄千代田線 根津駅》

江戸時代、喜連川藩は池ノ端七軒町に江戸屋敷を構えていました。

今回は、この屋敷跡を歩いてみましょう。

【グーグルマップは、喜連川藩江戸屋敷跡となりにある台東区立不忍小学校を示しています。】

喜連川藩江戸屋敷コース図の画像。
【喜連川藩江戸屋敷コース図】

喜連川藩江戸屋敷を歩く

今回の散策は、地下鉄千代田線根津駅2番出口からスタートです。

出口のすぐ前を南北方向に走る不忍通が走っていますので、これを南の湯島方向に進みましょう。

300mほど進み、道の東側に上野動物園が見えてくると、目的地の喜連川藩江戸屋敷跡に到着です。

屋敷跡の東半分が「ルネッサンスタワー上野池之端」のタワーマンション、西半分が隣のカームルネサンスになっているのですが、タワーマンション敷地の縁に沿って歩道が整備されていますので、軽く一周してみましょう。

手入れの行き届いた庭園と、歩きやすく整えられた歩道は快適そのもの、とはいえ、残念ながら古い遺構は見られません。

いっぽうのカームルネサンスを見てみると、こちらは立ち入り禁止、道から眺めたところでは、どうやらこちらにも古そうな遺構などはなさそうです。

二つのマンションの向こうは忍岡小学校、ちょうど休み時間なのか、子供たちの歓声が聞こえてきました。

周辺を歩く

このまま帰ってしまうのもさみしいので、ちょっと小学校の周りをぐるりと一周してみましょう。

西に進んで間もなく、道の右手、北側に池之端児童館が見えてきました。

このあたりは現在、児童館と小学校がある文教地区となっているのです。

そのまま進むと変則的な四つ角に出てきましたので、これを南方向にあたる左側に曲がって忍小通を南へ進みましょう。

妙顕寺の画像。
【妙顕寺】

進むとすぐに、鳥居清信の墓がある妙顕寺、北村季吟の墓がある正慶寺が並んでいました。

鳥居清信(1664~1729)江戸時代中期の浮世絵師で、鳥居派の初代。

「瓢箪足、蚯蚓がき」という豪放な画風で描く役者絵で有名です。

でも、鳥居清信の墓は染井墓地にあったと思うので、分骨したのでしょうか。

正慶寺の画像。
【正慶寺】

北村季吟(1624~1705)江戸時代前期の歌学者で俳人、松尾芭蕉の師としても有名です。

『源氏物語湖月抄』など多くの古典文学の注釈書を著し、のちに歌学方として幕府に仕えました。

正慶寺の道向かいは忍岡小学校正門、その南に川路聖謨の墓がある大正寺、その斜め道向かいには現代的な建物の東淵寺がありました。

川路聖謨(1801~1868)幕末期の幕臣。

嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛となり、ロシア使節プチャーチンと長崎で交渉、(1854)には伊豆下田で日露和親条約を結ぶなど、外交・海防で活躍するも、井伊直弼の安政の大獄で左遷されてしまいました。

その後、江戸開城の翌日、ピストル自殺しています。

大正寺から南に進むとすぐに、丁字路に行き当たり、そこから先には小高い丘があり、木々の間に大きな建物が見えてきました。

これは東京大学医学部付属病院で、丁字路を左手南東方向に行くと、東京大学池之端門があり、大学や病院関係者が多く出入りしています。

しかしなにより目につくのが、目の前の崖面に造られた巨大な建物、昭和初期を思わせる建造をベースにして度重なる増改築が行われたようで、タイルや窓のデザインも相まってちょっとした要塞みたいになっています。

残念ながら今は使われていないようで、廃墟化が進み、これがかえって迫力を生んで存在感を際立たせていました。

また、この辺りには戦後の雰囲気がところどころ残っていて、風情ある建物がみられるのも魅力です。

池之端、古い民家の画像。
【池之端の古い民家】

境稲荷神社

さきほどの丁字路を南東方向に沿って進むと、先ほどの東京大学池之端門があり、その隣に境稲荷神社が鎮座しています。

この神社は、文明年間(1469~1487、応仁の次の年号)に室町幕府九代将軍足利義尚が創建したと伝わる古社。

神社北側の井戸には、かつて源義経一行が奥州への逃避途上に弁慶がみつけたといういわれを持つ「弁慶鏡井戸」があって、江戸時代に名水として有名でした。

境稲荷神社前の丁字路を、左手の東に曲がって進むと、不忍通りの向こうに不忍池の新緑が目に飛び込んできます。

このまま、不忍通りを北に進んで、道向かいに上野動物園池之端門が見えると喜連川藩江戸屋敷跡地に戻るのですが、その少し手前で不忍通を渡って、不忍池で休憩しながら喜連川藩江戸屋敷についておさらいしてみましょう。

不忍池から見た喜連川藩江戸屋敷跡地の画像。
【不忍池から見た喜連川藩江戸屋敷跡地】
喜連川藩江戸屋敷(足利家池之端邸)推定範囲の図。
【喜連川藩江戸屋敷(足利家池之端邸)推定範囲】

喜連川藩江戸屋敷とは

前にみたように、喜連川藩の藩主、喜連川(足利)家は、古河公方の名跡を継ぐという高い家格にありましたので、数々の特権が与えられていました。(第4回「足利家の復活」参照)

そのうちの一つが「国住まい勝手」、つまり参勤交代の必要がなく、妻子を江戸に住まわす義務がない、というもの。

一般に大名は、妻子を生活させるとともに、藩主が江戸で生活するための屋敷地を幕府から江下賜されるのですが、その必要がないために喜連川藩には屋敷地が下賜されていません。

いくら喜連川(足利)家は参勤交代の必要がないとはいえ、やはり幕府の威光は恐ろしかったのか、正賀のための参府という形で毎年12月に参勤交代にかわるものを行っていました。

この参府の時期に藩主が宿泊する場所として、元禄16年(1703)に980坪の土地を購入して屋敷を整えたのが池之端の藩邸で、無年貢とされています。

ですので、抱屋敷に分類できるのですが、ここで藩主が暮らすわけではありませんので、詰めていた藩士も数名のみでした。

喜連川藩池之端開地抱屋敷(「小石川 谷中 本郷絵図」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【喜連川藩池之端開地抱屋敷「小石川 谷中 本郷絵図」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年)国立国会図書館デジタルコレクション  「喜連川左馬頭」とあるのが屋敷地で、他の図と比較すると慶安寺の寺域も含んだ表示になっているようです。】

池之端七軒町

喜連川藩が屋敷を置いた池之端七軒町は、徳川三代将軍家光の時代に、黒柳助九郎・牧野金助組の仲間の拝領地となったのにはじまるとされています。

こののち、権兵衛・三郎兵衛・久兵衛・勘右衛門・市右衛門・与兵衛・惣兵衛の七人の町民が住居地を買い求めたのが町名の起こりと言われます。

町の起立年代については、文献はないものの元禄16年以降と推定されていて、まさに喜連川藩が屋敷を構えた頃となっています。

正徳3年に町奉行支配となりますが町屋はそう広くなく、この付近は先ほど見た正慶寺や東淵寺をはじめ、永昌院・浄円寺・覚性寺の寺院、越中国富山藩前田家上屋敷と加賀国大聖寺藩前田家上屋敷、それに喜連川藩邸と寺地や武家地が広がっていました。

明治時代になると、明治元年に隣の池之端七軒町横町を併合、さらに明治2年に寺地、明治5年には武家地を合併、明治5年の戸数268、人口994(『府志料』)となっています。

昭和11年(1936)からは下谷区、昭和22年(1947)からは台東区に属し、昭和42年1月1日からは現行の池之端2丁目となりました。(『地名大辞典』)

足利家池之端邸(「明治東京全図」〔部分〕明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【足利家池之端邸(「明治東京全図」〔部分〕明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ) 「足利聡氏」の名が見えます】

足利家池之端屋敷

喜連川知藩事足利聡氏は、明治3年(1870)7月18日に版籍を新政府に奉還すると、上京を命じられ、池之端の屋敷に入ったのは前にみたところです。(第5回「喜連川藩大ピンチ」参照)

その後、聡氏は養嗣子・於菟丸の成長を待って明治9年9月3日に隠居、家督を於菟丸に譲りました。

すると、於菟丸は下谷区池之端の屋敷を処分して、東京本所区新小梅町一番地の水戸徳川侯爵家小梅邸宅に移ったのです。(第6回「子爵足利於菟丸」参照)

足利於菟丸(Wikipediaより20210519ダウンロード)の画像。
【足利於菟丸(Wikipediaより)】

ですので、華族となった足利家が池之端を居所としたのは、喜連川藩が廃止されてからわずか6年間のみ。

しかし十二代藩主縄氏がこの地で明治7年(1874)に亡くなっていますし、明治維新によって世の中が騒然とした時期ですので、幼い於菟丸を養育する聡氏もきっと大変だったのではないでしょうか。

とはいえ、於菟丸が8歳で多識を処分したところをみると、ひょっとすると足利家の借金問題がまだ尾を引いていたのかも知れません。

高松藩松平伯爵家

足利家池之端邸の地は、その後どうなったのでしょうか?

『土地家屋便覧圖、東京市下谷区池之端七軒町全般圖』(工藝社、大正2年)によると、かつて足利邸だった池之端七軒町二十六番地百九十二坪と二十七番五百坪は「松平頼寿」が所有していると記しています。

これを「明治東京全図」と比べると、範囲がほぼ重なることから見ると、松平伯爵家が足利家邸宅を明治時代初めに購入したのかもしれません。

ところでこの松平頼寿(1874~1944)とは、旧讃岐国高松藩主で伯爵、貴族院議員を30年以上にわたって務め、昭和12年(1939)には貴族院議長まで務めた実力者です。(『議会制度七十年史』)

じつは、後で見る池之端児童公園周辺には盆栽関連の団体や会社が集まっているのですが、これも盆栽の熱烈な愛好者だった松平頼寿伯に関係しているようです。

松平頼寿(『貴族院要覧. 昭和17年12月増訂 丙』貴族院事務局編(貴族院事務局、昭和18年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【松平頼寿『貴族院要覧. 昭和17年12月増訂 丙』貴族院事務局編(貴族院事務局、昭和18年)国立国会図書館デジタルコレクション】

高松松平伯爵家の事情

この池之端の土地ですが、じつは松平頼寿の父、頼聡が当初養嗣子としていた頼温がこの池之端を本邸としていたのです。

しかし、頼温が廃嫡されて頼寿が家督を継いだ結果、この土地も頼寿の所有となったのでした。

旧讃岐国高松藩松平伯爵家の歴史は、ぜひまたの機会に見ることにして。

不忍池や上野公園など、緑の多いこの辺りは快適な都市空間となったこの辺りは、現在は人気の住宅地となっているようです。

池之端児童遊園

それでは、帰路につきましょう。

不忍通を北上して400mほどでスタート地点に戻るのですが、その少し手前の丁字路になった池之端二丁目交差点の東側を見てください。

すると、公園の片隅に都電の車両がポツンとあるのが目に飛び込んでくるではありませんか。

この公園は池之端児童遊園で、かつての都電池之端七軒町停留所を公園にしたものだそうで、レールのモチーフがあるところは雰囲気があっていい感じです。

置かれている車体は「都電7500形」、昭和37年に製造された車体を更新した「7506号車」、なんと都電で初めて冷房が付いた車両なのだとか。

残念ながらこの辺りではなく都電荒川線を走っていたものだそうですが、ぜひとも車内に入りたくなる感じです。

都電池之端駅(台東区設置案内板より)の画像。
【都電池之端駅(台東区設置案内板より)】

改めて不忍通に戻り、北に進むとおよそ100mでスタート地点の地下鉄千代田線根津駅2番出口に到着です。

少し寄り道しましたが、およそ1.2㎞、1時間の散策となりました。

不忍池などの緑地も多く、上野動物園など周辺には見どころ一杯ですので、ぜひ足を延ばしてみてください。

不忍池の画像。
【不忍池越しに見た足利家池之端邸跡】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

『土地家屋便覧圖、東京市下谷区池之端七軒町全般圖』(工藝社、大正2年)、

『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960、

『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『江戸幕藩大名家事典 上巻』小川恭一編(原書房、1992)

台東区設置の案内板

参考文献:

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊

『人事興信録 2版』人事興信所編(人事興信所、1911明治41年6月刊)

『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事興信所編(人事興信所、1911)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912

『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)

『寛政重修諸家譜 第1輯』國民圖書、1922

『人事興信録 7版』人事興信所編(人事興信所、1925)

『下谷区史』東京市下谷区編(東京市下谷区、1935)、

『人事興信録 第11版改訂版 下』人事興信所編(人事興信所、1939)

「川路聖謨」「北村季吟」「鳥居清信」「松平頼寿」『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)

「喜連川藩」『三百藩藩主人名事典 第二巻』藩主人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1988)

「喜連川藩」大嶽浩良『藩史大事典 第2巻 関東編〔新装版〕』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣出版、1989)

『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(財団法人霞会館、1996)

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(街と暮らし社、1999)、

「喜連川(足利)家」『江戸時代 全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)

『華族総覧』千田稔(講談社、2009)

次回は、足利子爵家上富坂屋敷跡を歩いてみましょう。

また、トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。

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