前回は新宮水野家9代忠央が急速に力をつけていくまでを見てきました。
そこで今回は、忠央が歴史の表舞台に躍り出た嘉永5年の政変を見てみましょう。
徳川慶福
嘉永2年(1849)閏4月、わずか4歳の徳川慶福が13代和歌山藩主に就任すると、忠央はその補佐となって藩政を指導する立場となりました。
とはいえ、藩政の実権は治宝と改革派が握っている状態に変わりはありません。
徳川慶福
慶福は和歌山藩主徳川斉順の長男として弘化3年(1846)に生まれました。
父・斉順は第11代将軍徳川家斉の七男ですので、慶福は将軍の孫にあたると同時に、第13代将軍家定は従兄にあたるという血筋にあたります。
嘉永2年(1849)閏4月には、実子のなかった和歌山藩主斉彊(なりかつ)の養子となり紀州徳川家の家督を継いで和歌山藩主となったわけです。
さらに、嘉永4年(1851)には元服して第12代将軍家慶から一字を賜って名を慶福と改めました。
じつは、治宝が藩主の折、養嗣子として分家の西城藩徳川家の松平頼学を迎えて和歌山藩主とするよう要請していたのですが、忠央は自らの人脈を駆使してこれを阻止。
そのうえ当時は清水徳川家の当主であった斉順(慶福の父)を治宝の養嗣子とすることに成功していたのです。
和歌山藩の実権は治宝と改革派が握っているとはいえ、幕府を後ろ盾にもつ養嗣子の斉順を要することで、忠央はこれに対抗することができるようになりました。
江戸派
このように、幕府の権威を背景にした忠央と和歌山藩10代藩主治宝とは表面上はともかく、実質的には対立する関係になっていました。
忠央は、改革派に反対するものから信任を集めるようになり、忠央が江戸在勤であったことから江戸派とよばれるようになります。
また、真偽は不明ながら、玉置縫殿の機略と金策には様々な悪評が付きまとったことも、改革への反発に輪をかける結果となっていたのです。
和歌山在勤の付家老である安藤直裕と結んで忠央は和歌山藩内で無視できない存在へと成長していました。
嘉永5年の政変
しだいに和歌山派への不満が高まる中、嘉永5年(1852)9月には中心人物の山中筑後守が病死し、つづいて12月には治宝が死去したのです。
この機をとらえて、江戸派の山高石見守が攻勢に出ます。
伊達は田辺の安藤家預け、渥美は知行高半減のうえ伊勢田丸の揚げ屋入り、玉置は新宮の水野家預けとしました。
そのほかにも要職にあった者たちを、海防を理由に友ヶ島へと追放したのです。
じつはこの事件には水野忠央が大きく関与していました。
もともと治宝の藩政改革に反対の立場をとっていた付家老の安藤直裕と水野忠央は、おなじく改革に反対していた山高石見守たちを後押ししていたのです。
しかも、山高たちを十一代藩主斉順のもとに入れて、和歌山派の攻勢から守ってきました。
こうして忠央は、安藤直裕とともに、息のかかった者たちを藩の要職に付けることで、いっきに和歌山藩の藩政を掌握することに成功したのです。
ついに和歌山藩を抑えた忠央は、これからどういう藩政を布くのでしょうか。
そこで次回は、忠央がとった政策を見てみましょう。
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