堀子爵家の終焉【維新の殿様・信濃国飯田藩(長野県)堀家⑦】

前回は子爵・堀親篤が企業経営への無知に付け込まれて莫大な借金を背負わされて転落するまでを見てきました。

この危機を堀子爵家はどう乗り切ったのでしょうか?

今回は、堀子爵家のその後を見ていきたいと思います。

堀親篤(Wikipediaより20210324ダウンロード)の画像。
【堀親篤(Wikipediaより)】

華族子爵堀秀孝対株式会社千代田銀行破産管財人不動産強制執行異議事件

明治41年(1908)に十四代堀親篤子爵は莫大な借金を背負ったことで、区会議員など公職から退いたのはもちろん、地元浅草で培ってきた信用もすっかり失ってしまいました。

また、借金取りから逃れるために、浅草・向柳原の本邸から堀家の墓所である渋谷町字下渋谷48 、現在の渋谷区広尾5丁目にある東江寺内に住所を移しています。

さらに債務取り立てから堀子爵家を守るために親篤は明治41年(1908)5月に隠居して、長男秀孝に家督を譲りました。(『人事興信録 3版』)

しかし債権者からの追及は続いて「華族子爵堀秀孝対株式会社千代田銀行破産管財人不動産強制執行異議事件」に発展、長く堀子爵家を苦しめることになります。(「司法権の独立に関する上言書」『法律新聞大正4年(1915)1月15日』Webサイト新聞記事文庫)

堀秀孝(ほり ひでたか・1892~1941)

堀秀孝は、堀家十四代親篤の長男として明治25年(1892)に東京で生まれました。

父・親篤が莫大な負債を負ったことでの突然の隠居したのに伴って、明治41年(1908)6月に子爵を襲爵します。

その後、大正3年(1914)8月には父・親篤が分家して堀子爵家から債務を切り離す試みの一環でした。(「司法権の独立に関する上言書」『法律新聞大正4年(1915)1月15日』)

そんな中、妹で長女の喬子は子爵脇坂安煕の次男・孝之助に嫁ぎ、二女の章子は平民の山岡亥之助に嫁ぎます。(『平成新修旧華族家系大成』)

堀子爵家としては、何とか華族間での交流について続けようとしていたようですが、評判が落ちたせいか、以前は授爵者やその継嗣を嫁ぎ先としたのですが、それができなくなってしまったのです。

そして借金取りから逃げ込んだ広尾の東江寺から、大正3年(1914)頃に本郷区金助町70、現在の文京区本郷3丁目の借家に移りました。(『人事興信録 4版』)
この借家、同じつくりの家が四軒並んだちょっと大きめの家ですので、おそらく秀孝は母・喜子とのつつましやかな暮らしつつ借金問題という嵐が過ぎ去るのを待っていたのでしょう。

ちなみにこの頃、秀孝は早稲田大学を卒業しています。(『人事興信録 第11版改訂版 下』)

高田豊川町屋敷

そして長く堀子爵家を苦しめてきた債務問題がようやく解決した大正10年(1921)頃には小石川区高田豊川町、現在の文京区目白台1丁目にあった堀子爵家家作にある一軒家に移っています。(『人事興信録 6版』)


この引っ越しは結婚の準備だったようで、ようやく生活が落ち着いた秀孝は、仙石政敬子爵二女の鋭子と結婚しました。(『平成新修旧華族家系大成』)

この高田豊川町の屋敷で長女壽子(大正12年3月生)、二女貞子(同13年6月生)、三女菊子(同15年9月生)、長男・秀和(昭和3年(1928)7月生)と4人の子供に恵まれて(『人事興信録 第8版(昭和3年)』)、秀孝は久方ぶりの平和な日々を送ったのです。

東鳥居坂屋敷

そして子供たちが生まれて高田豊川町の住まいが手狭となったのか、堀子爵家は麻布区南鳥居坂町2、現在の港区六本木5丁目へ引っ越しています。(『人事興信録 第9版(昭和6年)』)

この家は、後の東京山の手空襲でも焼けずに残っていて、その姿を空中写真で見ることができるのですが、かなり立派な二階建ての洋館が二棟並ぶどちらかです。

堀子爵家の経済状況を考えると、新しく購入したのではなく、借家なのでしょうが、現在は東洋英和女学院や鳥居坂協会が並ぶ人気スポット。

しかし当時は、NHK朝の連続ドラマ「花子とアン」でも描かれたように、閑静な場所だったようです。

だいぶ規模は縮小したとはいえ、いまだに浅草邸跡に2,497坪(『東京市浅草区地籍台帳』)と小石川区高田豊川町に3,750坪(『東京市小石川区地籍台帳』)の家作を持つ資産家華族でしたので、生活も安定していたと思われます。

そして、『人事興信録 第11版改訂版 下』によると、昭和12年(1937)ころの堀子爵家では、二男秀倫(昭和5年(1930)10月生)が生まれ、三人の娘たちは母の出身校である女子学習院に、長男・秀和は学習院にそれぞれ通うようになりました。

東鳥居坂屋敷、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M449-72〔部分に加筆〕)の画像。
【東鳥居坂屋敷(赤矢印)、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M449-72〔部分に加筆〕) 】

そして最大の変化が、秀孝が陸軍に入り、歩兵中尉として勤めていることです。

堀秀孝の職業については、『昭和人名辞典』(光人社、1932昭和8年)に「無業」とあるのみで、おそらく早稲田大学を卒業してから職業についていなかったのではないかとみられるのです。

この40代後半になってからの陸軍入隊の経緯については、明らかにできませんでした。

ちなみに、この年の所得税は1,245円となっており、堀子爵家が高額所得者の末端にあることを教えてくれます。

秀孝死去

ところが、『人事興信録 第12版(昭和14年)下』で昭和14年の状況をみると、家族には変化がないものの、戦時経済の影響を受けたようで所得税が990円にまで減少しています。

そして昭和16年4月2日に堀秀孝は突然亡くなってしまうのです。

「有爵者薨去 従三位子爵堀秀孝ハ本月二日薨去セリ」(『官報.1941年04月09日』)とあるのみで詳細は不明ですが、この時期にもし戦死したのであれば、軍は宣伝に利用したであろうことを考えると、何かしら特別な事情があったのかもしれません。

堀秀和(ほり ひでかず・1928~1980)

急遽学習院在学中の長男・秀和が弱冠13歳で昭和16年(1941)5月1日に家督を相続して襲爵しました。

おそらく堀子爵家は秀幸の突然の死によって大混乱に陥ったことでしょう。

相続や先述の収入減、秀幸の俸給が失われるなどして堀子爵家は困窮したようで、麻布区櫻田町62、現在の港区西麻布3丁目に移っています。

昭和23年(1948)撮影の空中写真に写る家は、少し大きめの平屋の一般住宅で、似通った形態の家が並ぶことからみると、おそらく借家なのでしょう。

この家で三男秀行(昭和16年9月生)が生まれています。(『平成新修旧華族家系大成』)

そして、母・鋭子と女子学習院を卒業した長女・壽子と二女・貞子、女子学習院に通う三女・菊子、それに二男・秀倫と三男秀行と、家族七人が助け合ってつましく暮らしていたのです。(『人事興信録 第14版 下』)

ところが、空中写真をみると、この家も昭和20年(1945)の東京・山手空襲で焼失してしまったのですが、それ以前に転居した可能性もあります。

『華族名簿.昭和17年6月1日現在』および『華族名簿.昭和18年7月1日現在』では、堀秀和の住所が「杉並区馬橋町4丁目482」となっているので、あるいはこちらに移っていたのかもしれません。

この後、『人事興信録 第15版 下』に堀子爵家の記載は無くなって、堀子爵家の消息は途絶えることになります。                                

そして昭和23年(1948)の華族制度廃止によって、堀子爵家は消滅しました。

しかし、それ以前に堀家は華族にふさわしい家産や地位をすでに失って、華族の栄誉を支えることができる状態にはなかったのです。

最後の当主となった堀秀和(ほり ひでかず・1928~1980)の生涯は、没年のほか明らかにすることが出来ませんでした。

母・鋭子は昭和59年(1984)に85歳で没しています。

そして秀孝の長女・寿子は洋画家の小貫政之助と結婚するものの昭和22年(1947)に弱冠24歳で亡くなりました。

同じく二女・貞子は一般男性と結婚するも、離婚。

三女・菊子、二男・秀倫、三男秀行は一般人と結婚して、それぞれ家庭を築いています。(『平成新修旧華族家系大成』)

堀家の人々は、華族でなくなってもたくましく時代を生き抜いているのです。

小貫政之助が学んだ太平洋美術学校の画像。
【小貫政之助が学んだ太平洋美術学校(東京都荒川区西日暮里3丁目)】

小貫政之助・寿子夫妻

最後に小貫政之助と寿子のエピソードをお伝えしましょう。

小貫政之助(1925~1988)は、東京市月島で大工の政吉・ミツ夫婦の次男として生まれました。

幼くして画家を志して昭和18年(1943)に太平洋美術学校を卒業するも徴用されて中島飛行機株式会社の工員となった後、昭和20年に召集されて陸軍に入るものの2ヶ月で終戦を迎えます。(「語りえぬ言葉」)

堀寿子と出会ったのは、小貫がようやく画業に専念できる状況になったころでした。

二人はひかれあってすぐに結婚、杉並区高円寺に新居を構えて、小貫は寿子をモデルに数多くの作品を描いています。

しかし翌年の昭和21年に寿子は突然、病死してしまいます。

それはわずか一年ほどの新婚生活にもかかわらず、現存するだけでも油彩画20点以上、さらに多くのスケッチを描いていることから(「小貫政之助略年譜」)、小貫の寿子への強い愛情を感じずにはおれません。

小貫政之助が装丁を手掛けた本の画像。
【小貫政之助が装丁を手掛けた本】

小貫はその後も女性たちと出会ったり、長男の死に直面したりした結果、生涯「女」をテーマとして描き続けることになるのです(「語りえぬ言葉」)。

小貫の作品の中には、彼の持つ「生と死の相克」と「自嘲を含んだ諦観」が色濃く投影されていきました。

ちなみに、小貫は作家の黒岩重吾と深く親交を結んでいて、重吾作品の装丁を手掛けたことでご存じの方もおられるかもしれません。

この小貫の画業に、堀子爵家令嬢として華やかに飾られた寿子ではなく、一女性としての寿子の存在が寄与しているのかもしれません。

このことは、戦後という新しい時代の堀家を象徴しているように思えてなりません。

黒岩重吾(Wikipediaより20210402ダウンロード)の画像。
【黒岩重吾(Wikipediaより)】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

『華族名鑑』西村隼太郎編(西村組出版局、1875)

『慶應四年戊辰六月 太政官日誌 第廿八』太政官、1876

『慶應四年戊辰六月 太政官日誌 第卅ニ』太政官、1876

『慶應四年戊辰夏六月 太政官日誌 第卅七』太政官、1876

『慶應四年戊辰秋七月 太政官日誌 第四十四』太政官、1876

『慶應四年戊辰秋七月 太政官日誌 第四十七』太政官、1876

『明治紀元 戊辰冬十月 太政官日誌 第九十九』太政官、1876

『明治華族銘鑑』石川孝太郎(深沢良助、1881)

『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)

『立身致富信用公録 第6編』國鏡社編(國鏡社、1902)

『人事興信録 初版』(1903、明治36年4月)

『人事興信録 2版』人事興信所編(人事興信所、1911明治41年6月刊)

『人事興信録 3版』人事興信所編(人事興信所、1911)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『浅草区誌 上巻』東京市浅草区編(文会堂書店、1914)

『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)

『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)

『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928)

『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所編(人事興信所、1931)

『東京市小石川区地籍台帳』内山模型製図社編(内山模型製図社出版部、1931)

『昭和人名辞典』(光人社、1932)

『麹町区史』東京市麹町区編(東京市麹町区、1935)

「堀氏家譜」『蕗原拾葉 第十三輯』上伊那郡郡教育会編(上伊那郡郡教育会、1938)

『人事興信録 第11版改訂版 下』人事興信所編(人事興信所、1939)

『人事興信録 第12版(昭和14年)下』人事興信所編(人事興信所、1939)

『官報.1941年04月09日』

『華族名簿.昭和17年6月1日現在』(華族会館、1942)

『華族名簿.昭和18年7月1日現在』(華族会館、1943)

『人事興信録 第14版 下』人事興信所編(人事興信所、1943)

『人事興信録 第15版 下』(人事興信所編(人事興信所、1948)

『議会制度七十年史 貴族院・衆議院議員名鑑』衆議院・参議院編、1970

「飯田藩」平沢清人『新編 物語藩史 第四巻』児玉幸多・北島正元監修(新人物往来社、1976)

『津山市史 第6巻 現代I−明治時代−』津山市史編さん委員会編(津山市役所、1980)、

「廃城一覧」森山英一『幕末維新史事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)

「警察制度」『国史大辞典 第五巻』国史大辞典編集委員会編(吉川弘文館、1985)

『三百藩藩主人名辞典 第二巻』藩主人名事典編纂委員会(新人物往来社、1986)

『藩史大事典 第3巻中部編Ⅰ-北陸・甲信越』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣出版、1989)

「東京絵入新聞」『国史大辞典 第十巻』国史大辞典編集委員会編(吉川弘文館、1989)

『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(社団法人霞会館、1997)

『明治・大正・昭和 華族事件録』千田稔(新人物往来社、2002)

『近世藩制・藩校大事典』大石学編(吉川弘文館、2006)

『長野県の歴史』児玉幸多監修、古川貞雄・福島正樹ほか(山川出版社、2010)

「語りえぬ言葉 ―小貫政之助断章」「小貫政之助 略年譜」滋野佳美『没後30年・小貫政之助 語りえぬ言葉』滋野佳美(武蔵野市立吉祥寺美術館、2018)

一般社団法人全国銀行協会・銀行変遷史データベース

『法律新聞大正4年(1915)1月15日』Webサイト新聞記事文庫

参考文献など

「明治庭園記」小澤圭次郎(『明治園芸史』日本園芸研究会(有明書房、1975、大正4年刊行本の再刊)、

『長岡市史』長岡市編(長岡市、1931)

『幕末維新三百藩総覧』神谷次郎・祖田浩一(新人物往来社、1977)

『地籍台帳・地籍地図〔東京〕第6巻』地図資料編纂会編(柏書房、1989)

『三百藩家臣人名事典 第六巻』家臣人名事典編纂委員会(新人物往来社、1989)、

『角川日本地名大辞典20 長野県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三編(角川書店、1990)

『日本美術年鑑 平成元年版(1988.1-12)』東京美術研究所、1990

『江戸幕府大名家事典 上巻』小川恭一編(原書房、1992)

『日本女性人名辞典』芳賀登・一番ケ瀬康子ほか(日本図書センター、1993)

『帝都地形図 第4集』井口悦男編(国分寺 之潮、2005)

『江戸時代全大名家事典』工藤實正編(東京堂出版、2008)

『華族総覧(講談社現代新書2001)』千田稔(講談社、2009)、

次回からは、維新の殿様・大名屋敷を歩く、信州飯田藩堀家編をおとどけします。

また、トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見を募集しております。

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