≪最寄駅:東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅、都電荒川線・鬼子母神駅、有楽町線・護国寺駅≫
前回見たように、負債問題に追われる子爵・堀秀孝は、浅草・向柳原本邸を出て、渋谷・東江寺、本郷区金助町と住まいを移しました。
そこで今回は、秀孝が債務問題を解決し、家庭を持った小石川区高田豊川町、現在の文京区目白台1丁目を訪れたいと思います。(「第7回・堀子爵家の終焉」参照)
また今回、堀子爵家の住居が邸宅と呼び難い規模であることから、便宜上、高田豊川屋敷と呼ぶことにします。
くわえて、文末に堀子爵家高田豊川屋敷と、田中角栄の目白御殿の関係を時系列でまとめましたので、こちらも併せてご覧ください。
(グーグルマップは堀子爵家高田豊川屋敷跡に建つ日本女子大新泉山館を指しています。)
堀子爵家の高田豊川屋敷跡を訪ねて
東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅の3番出口を出ると、目の前にある大通りが目白通り。
この目白通りを、東の音羽方面目指して出発です。
都電荒川線・鬼子母神駅を出発する場合は駅南を通る鬼子母神表参道を南下して目白通りに出てください。
300mほどで不忍通りとの分岐点、目白台2丁目交差点につきますので、目白通りを渡りましょう。
そこに味わいのある風情の「鳳山酒店」があり、その横の細道を北に入ると、坂道マニアの間で有名な坂・日無坂があります。
目白通りをさらに東の音羽方面に進むとすぐに、道向こうに瀟洒な洋風建築とレンガ塀が見えてきました。
これが日本女子大学で、レンガ塀の向こうに見えるレンガ造りの建物が日本女子大学創設者・成瀬仁蔵を顕彰する昭和59年(1984)に竣工した成瀬記念館、古びてみえるのは明治38年(1905)完成の旧1号館の部材を再利用したからでしょう。
そして、校内東隅にあるグレーの建物が明治39年(1906)竣工、関東大震災後の大正13年(1923)改修の成瀬記念講堂で、コンドルの孫弟子・田辺淳吉の設計です。
成瀬記念館と成瀬記念講堂が呼応するかのように並ぶ姿はなかなかの壮観。
ちなみに、日本女子大学は、教育者・成瀬仁蔵が明治29年(1896)に創設した日本で初めての日本最初の女子高等教育機関、設立に協力した広岡浅子をモデルとした朝の連続ドラマ「あさが来た」でご存じの方も多いのではないでしょうか。
目白通りの南側に戻って、日本女子大学付属豊明小学校や図書館を通り過ぎると、日本女子大学新泉山館に到着、ここが堀子爵高田豊川屋敷の跡地です。
新泉山館の全体ではなく、その東半分が該当部分、みたところ古い遺構は見当たりません。
そこで、ちょっとだけ東に足を延ばして、目白台運動公園に入って木陰で休みながら、堀子爵家とこの地の関係を見ていきたいと思います。
堀子爵家と小石川区高田豊川町
ここで、堀子爵家と小石川区高田豊川町の土地とのかかわりを見ていきましょう。
まずは「第6回・堀子爵家の栄光と転落」「第7回・堀子爵家の終焉」の関連する内容をおさらいするところから。
十四代当主堀親篤(ほり ちかあつ・1863~1928)は明治11年(1878)10月5日に若干16歳で堀家の家督を相続すると、祿券三万十圓五十二銭を活用して資産を形成、その中で小石川区高田豊川町3,580坪の土地を手に入れました。
その後、親篤は取締役を務めていた千代田銀行が明治41年(1908)6月23日に任意解散すると、その債務の多くを負うこととなってしまいます。
そして莫大な借金から逃れるために、明治41年(1908)5月に親篤は隠居して長男の堀秀孝(ほり ひでたか・1892~1941)に家督を譲り、秀孝は浅草・向柳原の本邸から堀家の墓所である渋谷町字下渋谷48 東江寺内、大正14年(1914)頃に本郷区金助町70の借家と次々と住所を移します。
債務問題がようやく解決したあと、大正10年(1921)頃には小石川区高田豊川町の堀子爵家の家作のなかの一軒に移り、生活が落ち着いた秀孝は、仙石政敬子爵二女の鋭子と結婚(『平成新修旧華族家系大成』)、一男三女に恵まれました。
そして、この時の住まいは目白通り沿いのやや大きめの平屋住宅でしたので、住まいが手狭となったとみえて堀子爵家は麻布区南鳥居坂町2への邸宅へ引っ越し、高田豊川屋敷を後にしています。
こうしてみてみると、父の債務問題に巻き込まれて苦労続きだった秀孝にとって、高田豊川屋敷は収入源となる家作があるだけでなく、債務問題が発生するまでの幼年期以来、久方ぶりに平穏な暮らしを送ることができた大切な場所なのです。
堀子爵家高田豊川屋敷跡
それでは散策を再開しましょう。
日本女子大学新泉山館まで戻って、その西側の小道を奥まで歩きます。
じつはこの道、『東京市及接続郡部地籍地図』にも描かれていて、おそらく堀子爵家が家作を整備する時につくった道が今も残っているのです。
道の西側は個人住宅やマンション、東側には高い塀が続いていました。
奥で道はL字に曲がって行き止まりとなっていますが、ここは堀子爵家が手放した後に付け加えられたのでしょうか。
再び日本女子大学新泉山館まで戻って、今度は屋敷地の南端を見に行きます。
旧堀子爵家家作南側の崖 豊坂(坂の途中、クランク部分) 豊坂にある洋館
目白通りを西に進んで、日本女子大学付属豊明小学校や図書館を通り過ぎ、南に向かう坂を下りましょう。
この坂は豊坂(とよさか)、坂の下に豊川稲荷の小社があることから名づけられた明治時代につくられた坂道です。
古い石垣やレンガ積の擁壁が残る風情のある坂道で、坂マニアの間では有名だと耳にしました。
坂道は南半でクランクしていますが、ちょうどそこに坂の案内板が建っています。
そして見上げると、10m近い断崖になっているのが見えました。
幕末の志摩国鳥羽藩稲垣家下屋敷も、堀子爵家の家作地も、この崖で南を区切るのが自然だったのでしょう。
急な上りの豊坂を上って再び目白通りをめざします。
目白通りを渡って日本女子大の前を通り、関口方面に進みます。
およそ200mで北にまっすぐのびる道が分かれているので左に曲がってさらに進むと、昭和初期の和洋折衷住宅として名高い村川家住宅がありました。
このあたりは閑静な住宅地が広がり、目白台総合センター前を通って北に進むと、ここが名高き薬罐坂。
薬罐坂(やかん ざか)は夜寒坂、野貋坂などとも書きますが、「薬罐のような妖怪」が出没したという怪異伝説で耳にした方もおられるかもしれません。
村川家住宅 薬罐坂(阪下から)
薬罐坂を下ると不忍通りに出てきますので、これを渡って東の千駄木方面に坂を下っていきます。
首都高速5号池袋線の高架をくぐって日出通りを渡り、日大豊山高校前を通ると東京メトロ有楽町線護国寺駅の護国寺出口に到着です。
今回は、アップダウンが多いコースで、所要時間はおよそ1時間30分でした。
田中角栄 目白御殿
ところで、調査中に「田中角栄の目白御殿は須坂堀家下屋敷跡に建っている」など、事実と異なる風説を数多く耳にし、情報が混乱する状況に接しました。
そこで、以下では堀子爵家高田豊川屋敷と、田中角栄の目白御殿の関係を時系列でまとめてみましたので、ご覧ください。
なお、空中写真はすべて国土地理院Webサイトよりの転載、○印で示した田中角栄の経歴は『近代日本総合年表』(第三版4刷)に依拠します。
幕末:志摩国鳥羽藩稲垣家下屋敷
明治4年:上げ地されて目白通り沿いは小石川四ツ家(よつや)町に統合されその他は畑地となり農家が建てられる。(『小石川区史』および「明治東京全図」)
明治5年頃:小石川四ツ家が改称して高田豊川町誕生、旧稲垣家下屋敷が統合される。(『小石川区史』東京市小石川区)
明治時代中頃:堀子爵家が畑地部分、日本橋区堀留町の大地主・小布施福太郎 が農家の建物周辺を購入。堀子爵家は家作を整備する。(『東京市及接続郡部地籍台帳』『東京市及接続郡部地籍地図』)
大正10年(1921)頃:小石川区高田豊川町の堀子爵家の家作のなかの一軒、大通り沿いに子爵・堀秀孝が移る。(『人事興信録 6版』)
大正末~昭和初め頃:堀子爵家が島状に残っていた農家の建物周辺の土地も買い入れる。(『東京市小石川区地籍台帳』)
昭和6年(1931)頃:堀子爵家が麻布区南鳥居坂町2へ移る。(『人事興信録 第9版(昭和6年)』)
〔中央付近に大型の邸宅、その他は一般住居が配される。〕
昭和20年(1945)前後:堀子爵家が小石川区高田豊川町の堀子爵家の家作を売却する。
○昭和22年(1947)田中角栄、衆議院議員選挙初当選。
○昭和23年(1948)法務政務次官就任。
〔中央に包囲の異なる大型建物出現。南東部の一般住居が壊されて大型の宅地に統合される。〕
〔中央と東半南部が2件の邸宅に整理される。〕
○昭和32年(1957)第1次岸内閣で郵政相に就任。
○昭和36年(1961)自民党政調会長に就任。
○昭和37年(1962)第2次池田隼人内閣で大蔵大臣に就任。
○昭和40年(1965)自民党幹事長に就任。
〔中央の邸宅が目白通りまで拡張される。〕
〔中央の邸宅と東端の邸宅が統合される。東北部分の一般住宅が破棄される。(目白御殿の完成)〕
○昭和46年(1971)第3次佐藤内閣通産大臣として日米繊維交渉をまとめる。
○昭和47年(1972)日中国交正常化と日本列島改造論を旗印に自民党総裁選挙で勝利、首相就任(~昭和49年(1974))。
○政界で絶大な影響力を保有し、「(目白の)闇将軍」の異名をとる。
○昭和50年(1985)脳梗塞で倒れる。
○平成元年(1989)政界引退。
○平成5年(1993)死去。
〔平成16年(2004)目白通り沿いの一角に日本女子大学新泉山館完成。〕
平成31年(2019)遺産相続で現物納された北東部の土地に、目白台運動公園駐車場完成〕
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912
『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912
『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)
『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所編(人事興信所、1931)
『東京市小石川区地籍台帳』内山模型製図社編(内山模型製図社出版部、1931)
『小石川区史』東京市小石川区、1935
『近代日本総合年表』(第三版4刷)岩波書店編集部(岩波書店、1997)
首相官邸HP
参考文献;
『東京府志料 十六(第12巻)』東京都政史料館、1959
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文教区』街と暮らし社編(街と暮らし社、2000)
『帝都地形図 第4集』井口悦男編(国分寺 之潮、2005)
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