前回、いよいよ大津城攻防戦がはじまるまでをみてきました。
難攻不落の大津城を、宗茂たちはどう攻めるのでしょうか。
そこで今回は慶長5年(1600)9月7日からはじまる大津城攻防戦をみてみましょう。
大津城攻撃
西軍は大坂の関を守る京極軍を破ると、本陣を三井寺に置いて大津城を包囲すると、京町口からは毛利秀包、浜町口からは宗茂が攻めかかりました。
短期決戦を至上命題とする西軍に対して、籠城側は備えも厳重なうえに、兵糧も潤沢にあって、持久戦に持ち込む算段だったのです。
西軍は、兵力を動員して濠を埋め、三井寺の松を伐って楯をつくり、大津城陸地側の三方向に加えて琵琶湖からも船で攻めたてました。
ところが、京極勢はスキをみて城外に討って出るなど士気も高かったものですから、すっかり西軍は攻めあぐねてしまったのです。
西軍は三ノ丸から城内への侵入に成功し、二ノ丸までの占領に成功しますが、京極軍はなおも本丸に籠って抵抗をつづけました。
大津城砲撃
本丸の攻略がむつかしいとみた西軍は、大津城を見下ろす長等山に大筒を据えて、13日から激しく城内に撃ち込んだから大変。
次々楼櫓は砲弾で破壊され、城内は各地で火の手が上がったうえに、砲弾の一部が天守閣を直撃して炎上。
さらに、砲弾が近くに着弾して高次の妻・初の侍女二人が戦死、初も気を失う事態となって、城内は大混乱に陥ったのです。
それでも高次はあきらめず、本丸から伊予丸に移って抗戦を続けました。
一説によると、初が心の折れかけていた高次の「尻を叩いて」抗戦させたといいますから、さすがは浅井長政とお市の子といったところでしょうか。
大津城落城
しかし奮闘の甲斐なく、もはや落城は目前となると、高野山の木食応其による仲介で、大津城は開城したのです。
高次は城を出ると三井寺で剃髪し、高野山にのぼりました。
いっぽうで、大津城が開城した9月15日は関ケ原合戦のまさに当日。
宗茂は東海道を草津付近まで進軍した時点で関ケ原合戦の西軍敗北を知り、大坂城へと退却を余儀なくされたのでした。
高次は敗れたとはいえ、西軍の精強な軍勢1万5,000を関ケ原から遠ざけて参戦させなかった功は大きく、家康から称賛されたのはもっともなこと。
高次の夫人で浅井三姉妹の一人、初による強力な弁護活動もあって、高次は還俗して大名に復帰したうえに、若狭9万2,100石に加増されています。
宗茂帰城
いっぽう、大坂城に撤退した宗茂はというと。
西軍総大将の毛利輝元に大坂城に籠城して徹底抗戦する策を進言するものの、輝元はこの進言を入れることはありませんでした。
輝元は徳川家康に降伏して恭順の意をしめましたので、宗茂は柳川へと引き上げざるをえませんでした。
このとき、関ケ原から敵中を突破して敗走してきた島津義弘を同行させています。
島津といえば、宗茂の実父・高橋紹運の仇ですから、家中には「今こそ仇を討つ好機」と息巻くものも。
これに対して宗茂は、「敗将を討つは武門の誉ならず」と取り合わないばかりか、逆に島津軍の護衛を申し出たのです。
こうして宗茂は、島津義弘を豊後国海部郡日向泊まで送ると、自身は豊後府内に上陸し、九州を横断して10月9日に柳川へと帰還しました。
宗茂の侠気に感じ入った島津義弘は宗茂と友誼を結んだと伝えられています。
ここまで関ケ原で西軍が敗れ、敗軍の将となった宗茂が柳川に帰還するまでをみてきました。
このまま宗茂はあきらめてしまうのでしょうか。
次回は、一人戦いを続ける宗茂をみてみましょう。
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