大浜主水事件・勃発編【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑲】

前回みたように、五島藩主五島盛利は、大坂の陣が終わると、領主権の確立するために「福江直り」を再開したのですが、ここで恐れていた最悪の事態が起こってしまいます。

今回は、家中を二分するお家騒動「大浜主水事件」の勃発をみてみましょう。

大浜主水事件

大浜主水事件とは、元和5年(1619)5月27日に大浜主水が後継問題と盛利の失政をめぐって、幕府に直訴した事件です。

この大浜主水という人物は、先代藩主・玄雅の出身家である大浜家の養子となった人物で、玄雅の実子・玄宗の養嗣子でした。

じつは藩主盛利の妻は主水の義叔母で、盛利の妹・孝子が主水の妻という関係にあって、藩主五島盛利と大浜主水は義兄弟の関係にありました。

この事件は最終決着が元禄11年(1698)6月7日と、じつに発生からおよそ80年にもわたって訴訟が続くうえに、藩を二分する事態となった大事件ですから、少し詳しく見てみましょう。

徳川秀忠像(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【徳川秀忠像(Wikipediaより) 事件発生時は、二代将軍徳川秀忠の治世です。外様大名を次々と取り潰して、その領地を天領に組み込んだうえで、信販や譜代家臣に分け与えることで幕府の権力を強化していきました。】

事件の伏線

この事件のきっかけは、この主水の妻・孝子が密通事件を起こしたことに始まりました。

しかし、その前から事件へとつづく伏線があったのです。

ここで思い出してみてください。

五島家初代五島純玄が、朝鮮出兵さなかの文禄3年(1594)に陣中で病没した時に、小西行長が提案して、純玄の叔父で軍奉行だった大浜玄雅が五島盛重の子・盛長の嫡男・盛利を養嗣子とすることを条件として家督を相続しました。

じつは、この案を提示したのは、かつて朝鮮出兵の折に五島家の家督相続を小西行長に相談しに行った青方善助(青方雅盛の父)と平田甚吉(のちの貞方勝左衛門雅貞)だったのです。(第13回「五島純玄、戦地に死す」参照)

この二人は、のちのちまで登場する事件の重要人物ですので、覚えておいてくださいね。

権力争いに発展

さて、戦地でのことだったので、このように変則的な家督相続となったことが、ここまで尾を引くことになったのです。

五島藩の藩主継嗣について、二代藩主五島玄雅(大浜)系と、その叔父・宇久盛重から連なる宇久五島氏系の二つに分かれて権力争いを引き起こしてしまいました。

さらに、この権力争いに、「福江直り」によって巻き起こった、在地領主系の譜代家臣と、純玄が抱えた新参の家臣との間でおこった対立が合わさっていきました。

この家臣間の対立は、のちほどみることにしましょう。(第21回「大浜主水事件・深掘り編」参照)

このような背景があって、大浜宇右衛門は弟の主水と謀って、玄雅の妾子千代・弥三郎に五島を拝領したいという目安を幕府に呈していたといわれています。

ところが、兄の宇右衛門が死亡したので、主水が改めて目安をあげたのでした。

外様大名の危機感

関ケ原の合戦で勝利した徳川家康は、自分に敵対した西軍の大名家を中心に88家の外様大名を改易しました。

大坂の陣の後は、戦争がなくなったこともあって、世嗣断絶あるいは法度(幕府が定めた法律)に違反したことを理由に、多くの大名家が改易されたのです。

とくに、豊臣恩顧の外様大名は、幕府に目の敵にされた感さえあったのは皆さんもご存じかもしれません。

小早川秀秋像(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【小早川秀秋像(Wikipediaより) 関ケ原での東軍勝利の最大の功労者ですが、そのわずか2年後に急逝して改易されています。】

嗣子がないために、備前国岡山藩小早川秀秋(1602年改易)、伯耆国米子藩中村一忠(1609年改易)、筑後国柳川藩田中忠政(1620年改易)などが改易されたのです。

もちろん、譜代や親藩も改易されましたが、極めつけは、安芸国広島藩福島正則(1624年改易)、城を許可を得ずに補修したことで改易されました。

また、加藤清正の跡を継いだ忠広も、理由ははっきりしませんが、寛永9年(1632)に改易されています。

お家騒動は危険

ここで注目されるのが、出羽国山形藩最上義俊(1622年改易)、越後国高田藩堀忠俊(1610年改易)讃岐国高松藩生駒高俊(1640年改易)のようにお家騒動による改易の事例です。

ここまで見てくるとわかりますが、五島家も朝鮮出兵で豊臣姓を下賜されるなど、豊臣恩顧の大名ともみられる外様大名でしたから、元和5年(1619)というタイミングは、一連の改易された外様大名を思い起こされるのに十分だったのではないでしょうか。

こうして勃発した大浜主水事件ですが、これが五島藩を揺るがす大騒動へと発展していきます。

次回では、大浜主水事の発端となった、主水の訴えの中身をみていきましょう。

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