前回までにみたように、廃藩置県により水野家は新宮から去りました。
その後の新宮の町や熊野はどうなったのでしょうか。
そこで今回は、熊野と新宮に大きな傷を残した日本史上の一大事件、大逆事件をみてみましょう。
熊野と社会主義
明治30年代(1897~1906)に入ると、和歌山県でも「社会主義」を標榜する運動が現れ始めました。
社会主義の啓蒙と非戦論を唱える『週刊平民新聞』は、その第14号で「紀州熊野の社会主義」と題して大石誠之助や毛利柴庵の活動を紹介しています。
この『週刊平民新聞』は、幸徳秋水と堺利彦が作った平民社が発行する新聞で、明治36年(1903)11月15日に創刊されました。
はやくも創刊から3か月後の明治37年(1904)2月14日付で大石たちの活動が紹介されたわけですのですから、大石たちの活動がいかに注目されていたのかがわかります。
牟婁新報
また、田辺で明治33年(1900)に創刊された『牟婁新報』に毛利柴庵が入社したことを「今後同新聞によりても社会主義大に鼓吹さるるならん」と紹介しています。
そしてさらに『牟婁新報』では、柴庵が「マークス」の署名で「社会主義を鼓吹すべし」(明治36年5月6日付)といった社会主義の論説を発表しました。
さらに、『平民新聞』が発禁処分を受けて発行停止に追い込まれると、日露戦争の前後には小野田聖、豊田孤寒、荒畑寒村、菅野スガなどの反戦主義者を記者に抱えて自由な活動の場を提供したのです。
大石誠之助
熊野で盛んとなった社会主義ですが、その中心人物が大石誠之助でした。
ここで大石誠之助がどのような人物だったのかをみてみましょう。
大石誠之助は、慶応3年(1867)1月に新宮仲之町に大石家の三男として生まれました。
大石家は医師や教育家の家系で、誠之助も16歳で大阪に出て医学と英語を学びました。
翌年には京都の同志社英学校に入学するものの2年で退学し、東京の共立学校に移るものの、こちらも1年で退学となりました。
明治23年(1890)にアメリカに渡り、オレゴン州立大学医科に入学します。
明治28年(1895)に卒業すると、さらにカナダで外科博士号を取得、医学を修業してその年の11月に帰国しました。
明治29年(1896)4月に新宮町仲之町で「ドクトル大石」の看板を掲げて医院を開業しまし、貧しい人には治療費を請求しないなど「赤ひげ」ぶりで地域の人たちから慕われたといいます。
明治32年(1899)2月からはシンガポールで脚気とマラリアの研究を開始、明治33年(1900)にはインドのボンベイ大学でペストなどの伝染病を研究。
その後、翌明治34年(1901)に帰国すると、4月から新宮で医院を再開し、まもなく船町に移ります。
その年の11月には伊熊栄と結婚し、のちに長女鱶(ふか)と長男舒太郎(のぶたろう)にも恵まれ、幸福な家庭生活を送っていました。
誠之助と社会主義
いっぽう、海外での研究時に社会主義関係の本を読み始めた誠之助は、次第に社会主義への興味を深めていきます。
明治37年(1904)2月新宮キリスト教会で非戦論の演説を行ったのをはじめ、日露戦争のころに『平民新聞』に投稿しはじめて、反戦論を主張しました。
また、いっぽうで『牟婁新報』において起こっていた置娼問題では、反対論を唱えていたのです。
そして誠之助は明治41年(1908)11月、幸徳秋水を東京の平民社に訪問しました。
『平民新聞』発禁後に多くの社会主義者が『牟婁新報』の記者となったこともあって、日露戦争後には誠之助のもとに、堺利彦、森近運平、毛利柴庵、成石平四郎、沖野岩三郎、高木顕明、幸徳秋水、新村忠雄らが出入りし、一緒になって政談や演説会、講演を行ったのです。
ここまで大逆事件の舞台の一つとなった熊野について、その中心人物と目された大石誠之助を中心についてみてきました。
そこで次回は、近代日本のターニングポイントとなった大逆事件についてみてみましょう。
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