前回は大逆事件の経緯を追ってきました。
そこで今回では、大逆事件が新宮に残した深い爪痕をみてみましょう。
死刑執行
判決後に「犯人グループ」12人が無期に減刑されたので、はやくも明治44年(1911)1月24日に、残る12人のうち11人が幸徳秋水らとともに処刑されました。
さらに、死刑を言い渡された中で唯一の女性である菅野スガは翌1月25日に処刑されています。
この時、紀州グループからは大石誠之助と成石平四郎の2人が処刑されたのです。
熊野への影響
処刑の少し前、が出された18日の夕刻には、『熊野新報』『熊野実業新聞』『熊野日報』の三紙が号外をだして判決の内容を伝えると、町の辻々に貼り出されて、早くも人々の知る所となりました。
地域での人望が高かった大石誠之助をはじめとする地域の名士たちへの有罪判決や死刑執行は、少なからぬ動揺を与えたといいます。
そして与謝野寛は「誠之助の死」を発表して大石の死を悼み、佐藤春夫や沖野岩三郎が小説を書いて大石たちの冤罪を示そうとしました。
しかし大逆事件のでっちあげが広く世に知られるようになるのは終戦を経てかなりのちまでかかったのです。
熊野における事件の影響
いっぽうで、事件発生前の明治40年代(1907~1912)に入って日本各地で労働争議が一挙に増加していました。
熊野川でも石炭運搬に従事する船夫200人が「賃下げ反対、賃上げ要求」を掲げてストライキを実施し、要求を実現させたのです。
さらに、黒江町の漆器職工や和歌山市の木挽職工、那賀郡麻生津村の鉱山鉱夫の労働争議が発生しています。
このような状況の中で、指導者のもとで労働者の団結がよびかけられたことが功を奏して、しだいに労働者の組織化が進んでいました。
こうして統制のとれた争議が増加していき、和歌山県全域で労働運動が盛り上がりを見せていたのです。
ところが大逆事件が起こると、その影響で労働運動は頓挫し、急速に衰えを見せました。
労働運動が再興するのは、ようやく大正8年(1919)のこと。
この年の11月1日の東牟婁郡の松沢炭鉱で友愛会紀南支部の発足を待たねばならなかったのです。
熊野に刺さった3本のトゲ
『大逆事件と大石誠之助』の「はしがき」には、明治維新以後の熊野には、あまりにも深く大きなトゲが三つも残るとことになったと記しています。
まず第一は、神仏分離と修験道禁止令で、神も仏も関係なく受け入れてきた熊野信仰の根本が失われたことです。
これにより、参詣者のもたらす経済的利益にとどまらず、熊野の人々の精神的柱であった熊野信仰がおおきくゆらぐことになりました。
二つ目は、廃藩置県で、熊野川を県境として熊野が和歌山県と三重県に分割されたという事実です。
これにより、熊野の大動脈であった熊野川で地域が分断されることになって、生活基盤にも大きな打撃をうけることとなりました。
三つ目が、大逆事件によって熊野の反骨と自由闊達な精神が失われたことです。
この影響は熊野のみならず、「大逆事件」は日本の民主化の流れを止めて、軍国主義やファシズムへと進む曲がり角となりました。
そして、この三つ目のトゲこそが、熊野にとって最大のものとなり、いつまでも深く刺さって抜けることはありませんでした。
ここまでみてきたように、大逆事件で熊野と新宮の人々は、心に深い傷を受けました。
しかし戦時体制にひた走る日本にあって、熊野と新宮はかつてない好景気に浮かれることになります。
そこで次回は、好景気の到来から目を覆うばかりの衰退に至るまでの道筋をたどってみましょう。
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