前回みたように、征長軍の総攻撃ですが、四十八坂口では長州軍に撃退されてしまいました。
総攻撃のもう一方、忠幹率いる松ヶ原口の戦いはどうなったのでしょうか。
そこで今回は、松ヶ原の戦いからみてみましょう。
松ヶ原の戦い
慶応2年(1866)8月2日午前10時に大野村から水野忠幹率いる軍が松ヶ原口に到着します。
すると、水野軍右翼は峰を隔てて遊撃隊三・四番小隊を攻撃、左翼は御楯隊と衝撃隊に攻撃を加えて戦いがはじまりました。
この水野軍の攻撃をみて、長州軍の維新団が左の山から三ヶ月の峰に出て水野軍を側面から銃撃、さらにこれを酬恩隊が来て支援にあたったのです。
しかし水野軍は勇猛で、二方向からの激しい銃撃戦にもひるむことなく反撃に出たことで、戦闘は膠着状態に入りました。
膠着状態を打破すべく、長州軍は部隊配置を変更、正奇の二隊に分けて、正兵は正面からあたり、奇兵を背後の山に廻らせて左の山手から横からの攻撃を入れる作戦に出ます。
さすがの水野軍もこれには耐えきれず後退すると、長州軍は二三小隊を番兵に残して追撃にあたり、午後5時過ぎに松ヶ原に戻ったのです。
両者譲らぬ激戦でしたが、征長軍が撤退してこの日の長い戦闘は終わりました。
この日の長州軍は、大野村で戦死者こそいないものの負傷者が5名、玖波村で戦死者8名負傷者23名を出しています。
8月7日大野村戦争
慶応2年(1866)8月7日、長州藩は広沢真臣などを派遣して、佐伯郡玖島村において広島藩使節と極秘裏に会見しました。
ここでは相互撤兵交渉が行われ、両藩の停戦交渉が進められます。
そのいっぽうで長州藩は、停戦前に征長軍に対して最後の一撃を加えてから撤退する方針を立てました。
作戦の内容は、8月7日に玖波、松ヶ原、友田の三方向から大野村と宮内村に陣を構える征長軍を攻撃するものでした。
大野村へは、大手となる四十八坂口に遊撃隊4個小隊、良城隊2個小隊、岩国砲護兵とボード2門臼砲2門が本道を進み、左山手を御楯隊4個小隊、後軍を鍾秀隊4個小隊の陣容でした。
一方、搦手となる松ヶ原口には御楯隊2個小隊と維新団が本道を進み、左方の山を越えて衝撃隊が、右方の山を越えて遊撃隊が進軍することになったのです。
四十八坂口の戦い
8月6日夜半に長州軍が進軍を開始すると、前日からの大雨が、夜には烈しい風雨へと変わり、行軍を困難にしました。
長州軍がようやく四十八坂口に到着すると、征長軍は来襲を事前に察知して待ち構えており、すぐさま銃撃してきたのです。
7日午前6時になって、維新団は征長軍の下手に回り込んで銃撃を加えると、遊撃隊が本道を進んで右坂口の台場を攻撃を加えます。
これに加えて、七番小隊が左方の山上から征長軍の側面を攻撃、さらに良城隊と岩国兵がこれに続いたのです。
三方向から激しい攻撃を受ける形となって、征長軍は台場を放棄して撤退し、長州軍が占領に成功します。
勢いに乗って長州軍は進撃するのですが、兵力に勝る征長軍が体勢を立て直すと激しい反撃に出たのです。
激戦の末、長州軍は玖波村に引き揚げざるを得ませんでした。
また、左山手を進んだ御楯隊も、台場を一つ占領することに成功しましたが、征長軍の激しい反撃の前に後続が続かず、さらに後軍との間を分断されて孤立してしまいます。
征長軍の猛攻の前に、占領した台場を放棄して山伝いに撤退し、玖波と松ヶ原の陣所に引き揚げざるをえませんでした。
松ヶ原口の戦い
いっぽう松ヶ原口では、夜明けにようやく長州軍が到着すると、征長軍は滝の左方の山に陣営を設営したうえに砲台を築き、さらに右方の山にも胸壁をつくって長州軍を待ち構えていたのです。
さらに征長軍は、西教寺の後方に砲台を建設してフランス式砲4門を設置して、周辺の多数の砲台とともに、長州軍に対して遠距離砲撃を加えました。
しっかりと守りを固めた陣地から雨あられと銃弾を降らせましたので、長州軍は進軍することができず、午前十二時に撤退して松ヶ原の陣所に戻らざるを得なかったのです。
この戦いで長州軍は、戦死者8名、負傷者34名という大きな被害を出して敗退しました。
こうして長州軍を撃退し、ようやく大野村を防衛した征長軍ですが、じつはそのころに信じられない事態が起こっていたのです。
そこで次回は、8月7日宮内村戦争から芸州口での敗退までをみてみましょう。
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