前回、吉田大八が困窮する家臣たちを救うべく将棋駒製作を奨励するなど、藩政改革に取り組むところを見てきました。
今回は、戊辰戦争に巻き込まれる天童藩をみていくことにしましょう。
奥羽鎮撫使先導
慶応4年(1868)1月15日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府が徳川慶喜追討の勅命を発すると、ほどなく天童藩にも届き、藩主の上洛が命じられました。
これまでも上洛の要請がありましたが、藩主信学は病気を理由にこれを引き延ばして情勢を見ていたのです。
ところが、今回は上洛が必要と判断したものの、信学は病気で足が悪く臥せっていましたので、代理として嗣子信敏が家老津田勘解由と中老吉田大八らを従えて上洛しました。
すると、3月2日には藩主信学、同5日には改めて嗣子信敏に奥羽鎮撫使先導を新政府から命じられたのです。(以上『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)
この事態に3月9日に藩主信学は隠居して家督を信敏に譲り、信敏が藩主となりました。
織田信敏(のぶとし・1853~1901)
信敏は嘉永6年(1853)10月19日に信学の子として生まれ、文久3年(1863)7月に嫡子となりました。
先ほど見たように、慶応4年(1868)2月5日に病気だった藩主信学の代理として家老津田勘解由と中老吉田大八らを従えて上洛、すると軍務局から3月2日には藩主信学へ、同5日には改めて嗣子信敏に奥羽鎮撫使先導を命じられたのです。
しかし信敏はまだ15歳でしたので、吉田大八が奥羽鎮撫使先導役代理に任命されることになりました。
なぜ織田家?
新政府が織田家をこのような大役に任じたのは、前から織田家が尊皇派として活動していたとか、何らかの運動をしていたとかではなくて、佐幕色の強い東北南部において、歴史に名高い信長の末裔であるし、きっと徳川家に好感を持っていないだろうというかなりゆるい理由だったようです。
いっぽう、思わぬ大役を拝命した織田家は「先祖信長に対し、家之面目冥加至極、有難き仕合せ」と大喜びでした。
しかし同時に任の重さに不安を抱いていたのも事実で、「奥羽は無双の大国にて地理情態採り得難く、甚だ以て心配仕り候」として、その任務対象地を村山郡の二城十三陣屋に限定し、ほかは藩の力が許す限度の中で任に当たることを太政官に申請しています。(『物語藩史』)
信敏、明治天皇に拝謁
3月6日、ついに信敏は明治天皇に拝謁しました。
こうした事態を受けて、病がちな藩主信学は隠居して、3月19日には信敏が藩主となったのは前に見たところです。
とはいえ、信敏はまだ15歳でしたので、藩の実権は信学が握ったままでした。
そして、ついに会津討伐の命が下り、奥羽鎮撫総督九条道孝は、参謀世良修蔵と薩摩・長州兵を主力とする新政府軍を率いて仙台に到着します。(以上『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)
しかしまさにその時、朝敵となった庄内藩と新政府の間には柴橋代官領をめぐる問題が起きようとしていたのです。
柴橋代官領をめぐる衝突
出羽国村上郡内には寒河江・柴橋という二つの陣屋が支配する幕府領が、合わせて七万四千石余がありました。
いっぽう、江戸では、慶応3年(1867)10月ごろから、薩摩の西郷隆盛の指示で薩摩藩三田藩邸を拠点として小島四郎(相良総三)が指揮する「御用組」が辻斬や強盗、火付けなどの攪乱行為を行っていました。
というのも、これは、新政府側が幕府を武力討伐する口実を得るために西郷隆盛が画策したものだったのです。
この事態に、市中取締の任にあった庄内藩は、幕府や諸藩の兵と連合して慶応3年(1867)12月25日早朝に薩摩藩邸と支藩の佐土原藩邸を襲撃し、焼き討ちしたのです。
この事件をきっかけとして慶応4年(1868)1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こったことを学校で習った方も多いのではないでしょうか。
じつは、第十五代将軍徳川慶喜は庄内藩の江戸市中取締まりと薩摩藩邸焼討の功に報いるために、寒河江・柴橋両代官所支配地を庄内藩酒井家の預地としたのです。
この処置を受けて、庄内藩は年貢米受け取りのために村山郡内に兵を進めたのですが、もちろん新政府はこれを認めるはずもなく、総督府は庄内藩の行動を無謀出兵、収納米不法処理とみなして4月10日、ついに庄内藩の討伐を命じました。(以上『物語藩史』『三百藩主人名事典』『山形県の歴史』)
大八の調整
何よりも村山郡内の平穏を望んだ大八は、総督府と庄内藩の間に入って事態を円滑に収拾しようとします。
参謀世良修蔵には出兵を避けるように説得し、柴橋陣屋には庄内藩の撤兵と米の返還を庄内藩にすすめるように依頼しました。
しかし、新政府軍は大八の説得を無視するだけでなく、予定を繰り上げて天童に兵を進めるとともに、柴橋へ進軍する強硬策に出たのです。
幸運にも、大八の工作によってすでに庄内藩は撤兵しており、流血の事態は避けられました。
しかし、庄内藩からしてみれば、不条理な措置を受け入れたのに朝敵とされたのですから、納得がいくはずがありません。
ついには、大八が自分の利益のために庄内藩をだましたというような風説が流布するありさまとなってしまいます。
こうして、新政府軍・庄内藩ともに大八への不信感を抱く事態に陥ってしまったのです。(以上『物語藩史』)
大八の栄光
4月15日には副総督・沢為量と参謀・大山格之助率いる新政府軍二百人余りが仙台を出発して村山郡に進むと、いよいよ大八は天童藩兵30人を従えて先導の役につきました。
18日には上山城南の見目原において諸藩兵の閲覧式があり、多くの群衆が見物に押しかけて大変なにぎわいです。
群衆が見守るなか、先導役代理の天童藩士吉田大八が、地域で最も家格の高い松平家上山藩藩主松平信庸よりも上座に着席してました。
見物人たちは、これまでの秩序がひっくり返った瞬間を目撃し、大いに驚いたことでしょう。
さらに20日には、大八率いる天童藩兵が先導して新政府軍は天童に行進したのです。
そして22日には大八が先導して新政府軍は新庄に入りました。(以上『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)
この間にも大八は南部藩や米沢藩などの協力を得て、なんとか庄内藩から謝罪を取り付けようとしますが、庄内藩はこれを拒否、さらには大八の不可解な動きに新政府も疑念を抱くとともに、巻き返しを図りつつある天童藩内保守派の動きに警戒感を抱いていたのです。(『物語藩史』)
こうして奥羽鎮撫使先導役の栄光につつまれた中で、すでに天童藩の危機が目前に迫っていたのを大八や天童藩のだれもが知る由もありません。
ここまで奥羽でしだいに孤立していく大八と天童藩をみてきました。
このあと天童藩はどうなってしまうのでしょうか?
次回ではいよいよ天童に戦乱がおよぶ様子をみてみましょう。
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