前回見たように、戊辰戦争戦が終わって復興を目指す天童の町と織田家天童藩、しかし時代はさらに変わっていくのです。
今回は、明治時代の織田家をみてみることにしましょう。
山形県誕生
ようやく戊辰戦争が終わり、平穏が訪れるかと思われた明治2年(1869)は、のちの山形県域が記録的な大凶作となりました。
くわえて、戊辰戦争の出費で多大な負債を抱えて、諸藩は万策尽き果てた状態になっていたのです。
このため、農村は疲弊して窮民が続出するありさまとなり、打ちこわしや騒動が続発するきわめて不穏な情勢となりました。
そんななか、山形藩の水野家が戊辰戦争の処置で明治3年5月に近江国朝日山に転封を命ぜられた後、新政府の直轄地となった旧山形藩領を中心に、村山郡一帯の天領をはじめ、庄内の一部にまで及ぶ範囲が統合されて、明治3年9月28日に第一次山形県が誕生したのです。(以上『山形県の歴史』)
廃藩置県を待たずに大規模な県ができている事実に、この地域の置かれた危機的状況を感じずにはおれません。
天童藩消滅
そしてついに明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行されて、天童藩が消滅し、天童県が誕生しました。(『山形県の歴史』『地名大辞典』)
信敏はそのまま知事となり、復旧した藩庁がそのまま県庁として使用されますが、前に見たように財政が破綻状態にあったこともあり、わずか一か月後の8月29日に廃県となって山形県に統合されたのです。(『地名大辞典』)
同様に、上山県、新庄県も誕生したのですが、財政が崩壊状態なのはどこも同じでしたので、県誕生からわずか3か月余の同年11月2日に上山県、新庄県が併合されて第二次山形県が誕生しました。(『山形県の歴史』)
ですので、天童藩をはじめとする山村郡内の地域では、廃藩置県によって崩壊した藩財政が救済される形となりましたので、非常にラッキーなこととして歓迎されたのではないでしょうか。
ただし、天童県が廃止されたことで、天童藩主・信敏は上京を命じられて天童を離れることとなります。
また庄内藩の襲撃により焼失した陣屋や藩校はそのまま廃止となりました。(「廃城一覧」)
東京の信学・信敏父子
信敏より一足早く上京した信学は、明治3年(1870)4月に上京、5月7日に明治天皇に拝謁しました。
天童県廃止によって東京へと移った信敏は、明治4年(1871)11月に、かつての天童藩上屋敷を下賜されてここに移ります。
ようやく落ち着いたと思った矢先の明治5年(1872)、なんと自宅が焼失してしまったのです。
銀座大火
明治5年(1872)2月26日午後2時、和田倉門内の元会津藩上屋敷、当時の兵部省添屋敷から出火、折からの冬の乾いた風に乗って次々と延焼し、銀座から築地にかけて四十数カ町を焼失して午後10時にようやく鎮火しました。
築地本願寺や名物ホテル館も消失(『中央区年表』)、この火事による焼失地を現した『東京府下焼失跡測量家作図』によると、信敏が住んでいたかつての天童藩上屋敷のみならず、上地になったばかりの下屋敷も消失してしまっているのが分かります。
ちなみに、この火事により不燃都市建設の議論が起こり、東京府知事由利公正は英国人トーマス・ウォートルスに設計を依頼して煉瓦街建設に着手しました。(『中央区年表』)
この煉瓦街は明治10年に完成して、煉瓦建築と同時に行われた街路整備によって、銀座は日本初の煉瓦街として生まれ変わり、「文明開化」の象徴として広く知られることとなったのです。(「災害に学ぶ」)
この火事で邸宅と財産を失った織田信学・信敏親子は、本所区相生町五丁目14番地に移りました。(『官許貴家一覧 武家華族之部』雁金屋清吉、1873)
いっぽうで、焼失した織田家邸宅跡地はそのまま上地となりますが、「明治東京全図」を見ると、東京鎮台の兵営として利用されています。
本所区相生町時代
さて、焼け出されて相生町に引っ越した織田家ですが、この場所が案外気に入ったのか、それとも資金不足で新たな屋敷を構える余裕がなかったのか、このまま明治14年(1884)ころまでこの本所相生町に住んでいます。(『明治華族銘鑑』石川孝太郎(深沢良助、1881))
この本所相生町時代に信敏は、明治7年(1874)1月内務省九等出仕しますが(『人事興信録初版』)、宮仕えが性に合わなかったようで、すぐに依願退職しています。
『人事興信録初版』に「(信敏が)東京慶應義塾に入り英学を修む」とあるのもこの時期のこと、これかの人生を見据えて、信敏もいろいろやってみた時期でもありました。
この本所相生町の家は、一般の民家より広いとはいえ、2千坪を超えたかつての上屋敷に比べるとやはり手狭であることは疑いようもなく、元殿様二人とその奥方、さらにはお姫様(信敏の娘)までが一緒に住んでいましたから、かなり窮屈だったのではないでしょうか。
深川区安宅町時代
さらにそのあと、本所区相生町からすぐ近くの深川区安宅町4番地に引っ越して、ここでも5年間ほど暮らしていました。(『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883))
安宅町は「大橋あたけの夕立」で知られた町で、もとは幕府の御船蔵があったところ。
明治時代になって町屋が立ちならぶところに変わった、当時は新しい町でした。
名所として知られた新大橋に近い、隅田川に臨む風光明媚な場所だったようです。
そして、本所相生町の家で見た元殿様二人にその奥方、さらには娘のお姫様たちがが暮らす状況は続いていました。
そんななか、実家に問題が起こったことにより、信敏は明治16年(1883)8月17日に妻の北海道松前(館)藩主松前崇広の四女増子と離縁しています。(『旧華族家系大成』)
また、この深川区安宅町時代の明治17年(1884)に信敏が子爵に叙されました。
浅草区北三筋町時代
子爵となった信敏は、今度は深川区安宅町から、隅田川を超えた浅草区北三筋町45番地に引っ越して、明治20年(1887)前後の数年間暮らしています。(『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887))
東京最大の歓楽街・浅草は目の前ですので、趣味人として知られていた信学にとっては住みよい場所だったのかもしれません。
このときもぎゅうぎゅうぶりは相変わらずのようで、逆に家族水入らずの時間を楽しんだのかもしれません。
麹町区内幸町時代
さらにその後、明治23年(1890)ごろに麹町区内幸町1丁目6番地に移り(『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1891))、5年間ほど暮らしています。
この地に引っ越して間もなく、信学が明治24年(1891)2月3日に死去、享年73歳でした。
この場所は皇居にほど近く、現在は日比谷公園が目の前で、通りを挟んで官公庁街に当たるビジネス街、きわめて地価の高い場所となっています。
しかし、当時は明治36年(1903)に日本で最初の様式公園として日比谷公園が開園する前ですので、このころはまだ陸軍の日比谷ヶ原練兵所のだだっ広い草原でした。
ここで気になるのが、麹町区内幸町1丁目6番地に邸宅を構えていた華族があることです。
それが旧陸奥国相馬藩主相馬子爵家で、「明治東京全図」にあるように、明治時代初めからずっとこの場所に広大な邸宅を構えていました。
相馬子爵家といえば、足尾銅山への投資が見事に当たって、資産家華族として知られた家柄。
いうなればこの相馬子爵家邸宅に織田家が転がり込んだ形になるわけですが、織田子爵家と相馬子爵家には何らかのつながりがあるのでしょうか?
市ヶ谷薬王寺前町へ
明治32年(1899)ころに、信敏は内幸町から、山の手の東京市牛込区市ヶ谷薬王寺前町五十二番地に引っ越します。(『新撰華族名鑑』本田精志編(博文館、1899))
これは、嫡子のない信敏が、相馬子爵家から相馬誠胤長男の信恒を養嗣子に迎える準備の一環と考えるのですが、この信恒が成人した暁には、信敏の二女・栄子と婚姻して生活することも見越しての引っ越しだったのでしょう。
ということは、信恒と婚約者の英子が幼い時から婚約していて、それからずっと同居するというちょっと不思議な状態になっていたのです。
ところで、信敏が養嗣子を相馬家から迎えたのは、父・信学が正妻に陸奥国中村藩主相馬益胤の長女を、その死後は継母に相馬益胤二女糸子を迎えていることから、相馬子爵家と強いつながりがあったのがきっかけとみられます。
前に見たように、織田子爵家は経済的にかなりの苦境にありましたので、信学の夫人の実家を頼ったのでした。
相馬家としても、明治16年(1879)に発生した「相馬事件」があって、誠胤の側室の子である信恒を相馬家の嫡男にするのが難しかったのでしょう。
ちなみに、相馬事件とは、陸奥国中村藩から相馬子爵家当主となった誠胤を、精神障害を理由に、政府の許可を得て親族が自宅監禁したのですが、これに疑問を抱いた旧家臣錦織剛清がその不当性を訴えた事件です。(『日本歴史大事典』)
この事件について詳しくは、相馬子爵家の連載時までお待ちください。
ちなみに、相馬事件では、相馬家親族に対する錦織と彼を支持する後藤新平の激しい法廷闘争となりましたので、これを支援するために相馬家の娘・糸子が夫・信敏やその娘を連れて相馬家に引っ越したのかもしれません。
織田家の未来を託す人物が決まって安心したのか、信敏は明治34年(1901)6月6日にこの地で死去、享年わずか48歳でした。
今回は、天童藩が消滅して、東京に出てきた織田信学と信敏父子の歩みをたどってきました。
子爵に叙せられた織田家は、養子に迎えた信恒が家督を継ぎましたが、果たして家名をあげることはできたのでしょうか。
次回は信恒の時代を見ていきたいと思います。
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