安政の改革【筑後国柳川藩立花家(福岡県)37】

前回みたように、幕末の混乱の中で、幕府から次々と警衛役を命じられた柳川藩は、財政の悪化に歯止めがかからない状況となりました。

そこで藩主鑑寛は、安政6年(1859)9月、家老立花壱岐を登用して藩政改革を断行、財政立て直しと軍備の充実を図ります。

今回は、この柳川藩安政の改革についてみていきましょう。

立花壱岐登場

立花親雄は、藩主鑑備から壱岐の名を与えられたことから通称は立花壱岐で、横井小楠から世界情勢を学び、橋本左内・安島帯刀らとも親交を持つ開明的人物です。

立花壱岐親雄(Wikipediaより20211211ダウンロード)の画像。
【立花壱岐親雄(Wikipediaより)】

ペリー来航後の嘉永7年(1854)に大師河原、さらに上総国富津に藩兵を率いて警衛役を務めましたが、その折に柳川藩の軍備が立ち遅れていることを痛感します。

安政6年(1859)9月15日、藩主鑑寛から藩政を委任されて、藩財政の立て直しと軍備の充実を骨子とする藩政改革に着手しました。

人材登用と歳出削減

親雄はまず、実兄の十時雪斎、ともに横井小楠に学んだ十時兵馬惟恭と池辺藤左衛門、新興商人の高椋新太郎といった有為の人材を積極的に登用します。

そのいっぽうで、人員整理と経費節減を行って歳出をカットするとともに、櫨・和紙・製茶・生糸・種子油・などの殖産興業と物産会所を設置し、預り切手と藩札10万両の発行を行います。

高椋新太郎(『筑後商工先達小伝』久留米商業学校調査部 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【高椋新太郎『筑後商工先達小伝』久留米商業学校調査部 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション 】

10万両藩札発行

しかし、10万両もの藩札発行は、これまでたびたび藩札や米札を発行して失敗してきただけに商人たちからの信用が得られず、困難を極めました。

そこで親雄は魚問屋高椋新太郎を財政方に取り立てて正貨準備にあたらせたのです。

新太郎は十時兵馬とともに10万両の現金を借りるため、大坂に出向きます。

そして大坂の鴻池・加島屋ら豪商を宴席に招き、「藩命により饗するも何の馳走なし、ただ余興に江戸関取相撲を御覧に供す」と、障子を開き柳川出身の大関雲竜以下の力士の揃い踏みを披露したのです。

さしもの豪商たちもこれには度肝を抜かれ、その機知と信用に基金を立て替えたといいます。

「雲龍久吉」(歌川豊国、嘉永5年、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「雲龍久吉」歌川豊国、嘉永5年、国立国会図書館デジタルコレクション  大相撲の横綱土俵入りの雲竜型にその名を遺す名力士です。】

この基金を元手に、新太郎は藩財政立て直しにあたることができました。

鼎足運転之法

藩は領内商人にこの藩札で産物を買い付けさせて、商人はこの資金で産物を買い付けて長崎へ送り、その交易利潤を藩の会所に収める仕組みを作り上げることに成功します。

このように、藩札・産業・現金の三者が鼎のように回る物産会所を中心とした産業経済政策は「鼎足運転之法」と名付けられて、大きな利潤をあげたのです。

また、新太郎は3万両で藩船千別丸を購入し、藩兵の移動と軍備に用いるよう親雄に進言し、採用されています。

さらに、得られた資金で洋式ゲベル銃を100挺を購入し、軍備の拡充を図りました。

19世紀前半の長崎・出島(Wikipediaより20211209ダウンロード)の画像。
【19世紀前半の長崎・出島(Wikipediaより)】

ついに藩政改革に成功し、藩財政に立て直しに成功した柳川藩。

この成功の背景には、高椋新太郎はじめ商業に精通した人材の登用によって、これまでの失敗しながらも積み重ねてきた成果が一気に花開いたのです。

そして時代はいよいよ幕末の動乱へと進んでいきます。

そこで次回は、長州征伐での柳川藩をみてみましょう。

《前回と今回の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩家臣人名事典』をもとに執筆しました。》

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