前回は、七代藩主鑑通の治世、四ケ所通久によっておこなわれた宝暦の改革についてみてきました。
そこで今回は、宝暦の改革のゆくえをみてみましょう。
御借辛子制
筑後地方では、18世紀中ごろから菜種、柳川での当時の呼び名は辛子の生産が盛んとなりました。
菜種は、種を絞った油が良質な灯油となるだけでなく、たんぱく質を多く含んだ絞りかすが肥料となったのです。
そのため、利用価値が高く、農民にとって重要な作物となりました。
柳川藩では、宝暦4年(1754)から1反につき5升を徴収する御借辛子の制度が導入されます。
当初のもくろみでは、藩が強制的に借り上げて集積し、大坂などで高値販売し、出た利益を農民と藩で分け合う制度でした。
ところが藩は、借り上げた菜種やその代金を農民へ返済することはなく、のちに進上辛子と名称を変更したのです。
さらに、御買辛子という名称で1反につき4升の上納が命じられましたが、ここでも代金が支払われませんでした。
とはいえ、1反あたり9升の上納は、ほぼ生産高の1割に相当するもの、残りの9割が農民の手元に残る好条件でしたので、栽培はますます盛んとなっていきます。
こうして菜種は、柳川藩領の主要産物の一つとなり、明治に石油系の灯油が普及するまで地域を支え続けたのです。
改革のゆくえ
さらに通久は庶政の刷新を企画して、宝暦8年(1758)4月には官制改革を行い、奉行を中老とし、検見役を郡役としました。
そのいっぽうで通久は、これまで干拓事業を推し進めるために税制面で優遇していた干拓地である開地や家臣の手作り地に対する課税を強化しています。
また、藩主鑑通が作った藩兵の練兵所主幹を務めました。
さらに、宝暦10年(1760)には藩祖立花道雪を祀る梅岳霊社を創建したり、宝暦11年(1761)には藩士の家系や事績をまとめた「諸侍系図」を編纂するなど、柳川藩士の意識を高める工夫もしています。
四ケ所通久による宝暦の改革では、辛子(菜種)栽培などで一定の成果は見られたものの、残念ながら藩財政を改善するまでには至らなかったのです。
こうして藩財政の危機は続き、あらためて改革が必要となりました。
そのため、天明年間(1781~1789)にも藩政改革の動きがありましたが、実現には至っていません。
そこで次回は、豪傑組とよばれる改革派によって行われた寛政の改革についてみてみましょう。
《宝暦の改革については、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩家臣人名事典』をもとに執筆しました。》
コメントを残す