小笠原子爵家牛込北町・袋町邸跡を歩く 中編【越前国勝山藩(福井県)49 】

前回は、都営大江戸線牛込神楽坂駅をスタートして、北町41番地に住んだ文人たちをみてきました。

今回は、小笠原長育が暮らした小笠原子爵家北町邸跡をみに行きましょう。

牛込北町と中町

前回みた牛込北町41番地は、江戸時代から明治にかけて、次々と文人たちが住まいました。

しかし、残念ながら、道路拡張の影響などもあって、南畝の時代はもちろん、紅葉や水蔭の住んだころのおもかげは残っていません。

それでは、四つ角を西に進みましょう。

新宿区北町の画像。
【かつての牛込北町、現在の新宿区北町を東から望む】

このあたりは、建物こそ古いものでも戦後といった風ですが、その足元を見ると、明治の作かと思われる切り石積の石段や塀、さらに古風な石積があったりするから目が離せません。

そういえば、この通りの一本南、中町について、田山花袋が『東京の三十年』で明治22年(1889)ころのようすをこう書いています。

「北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中町が一番私に印象が深かった。他の通りに比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。」

北町も似通った感じとみていいのでしょうが、花袋は「それに、其通には、若い美しい娘が多かった」と続けているので、その印象が強かったのでしょう。

北町で見つけた古風な石垣の画像。
【北町で見つけた古風な石垣】

小笠原子爵家牛込北町邸

さて、北町を東西に貫く道沿いには、「瀟洒な二階屋、其処から玲瓏と球を転ばしたやうにきこえてくる琴の音」(『東京の三十年』)こそないけれど、雰囲気は十分に残っています。

さらに西へ進むと、緩やかな下り坂は上りに転じて、その先からにぎやかな声が聞こえてきました。

この声は道の右手北側にある愛日小学校からの子どもたちの歓声。休み時間なのでしょうか。

そんな愛日小学校の手前、道の左手にあるのが13番地で、小笠原子爵邸の跡地です。

驚いたことに、ちょうどその場所に、陶製表札を出した趣のある邸宅があるではありませんか。

牛込北町は、明治時代から地番がほとんど変わっていませんので、小笠原邸もまさにこの場所だったのでしょう。

北町13番地の邸宅の画像。
【北町13番地の邸宅】

北町邸の記憶

現在の建物は、外観から戦後復興期の建築らしく、長育の暮らしたころのものではありません。

ただ、豊かな植栽に立派な門構えと石塀は、かつての雰囲気を思い起こさせてくれました。

長育が暮らした場所は、大正元年(1912)の『東京市及接続郡部地籍台帳』では、北町13番地の宅地は256.79坪とありますので、個人住宅としては、かなり立派なものだったとみてよいでしょう。

小笠原長育は、前にみたように明治24年(1891)ころに牛込弁天町からこの地に移っていますので、先ほど見た尾崎紅葉と住んでいた時期が少しですが重なっているようです。

ところで、牛込区北町は、明治時代には閑静な住宅地となっていますので、この場所に住むには多額の費用が必要だったと思われます。

しかし、この少し前の明治20年(1887)ころに小笠原子爵家と「若尾財閥」を直いる若尾家が親類縁者となっていますので、少なくない援助があったのでしょう。

北町13番地から東を望む画像。
【北町13番地から東を望む】

北町時代の長育

長育が北町に暮らしたころは、東宮侍従として職責を果たす一方で、華族同方会を舞台に活躍していた時期にあたっています。

そして貴族院子爵議員に当選するものの辞退したのもこの時でした。

また一方で、大石新太郎が金の無心にきて長育と面会したうえで全円借用を断ったのも、小笠原子爵家を騙って謝金するものが現れたのも、ここ北町に住んでいた時期だったのです。

このようなことからみても、長育の名が広く知られはじめていたのでしょう。

ちなみに、明治26年(1893)4月8日にはこの地で二男の牧四郎が生まれています。

そして、明治24年(1891)12月17日前後に赤坂区青山北町6丁目36番地に移って明治28年にこの地で亡くなりました。

それでは、引き返して交差点まで戻りましょう。

戻ったら、今度は南へ100mほど進むと、小さな交差点が現れます。

この交差点の左手にあたる東側は、少し手前の部分からかつての土井氏子爵家の地所でした。

しかしまずは交差点を右手にまがって、田山花袋が称賛した中町を50mほど西に進んだところにある中町公園に向かいます。

ここで休憩しながら、小笠原子爵家袋町邸についてみてみましょう。

宮城道雄記念館の画像。
【宮城道雄記念館】

ところで、公園の道向かいには宮城道雄記念館があります。

この場所は、宮城道雄が昭和53年(1978)に亡くなる直前まで暮らしていたところなのです。

休憩前に、宮城道雄についてみておきましょう。

宮城道雄

宮城道雄(1894~1956)は、代表作『春の海』で知られる大正時代から昭和にかけて活躍した生田流筝曲家・作曲家です。

宮城道雄(Wikipediaより20211016ダウンロード)の画像。
【宮城道雄(Wikipediaより)】

神戸市で生まれた宮城は、7歳ころに失明し、筝曲家の2世および3世中島検校に師事します。

その後、筝曲の伝統を生かしつつ技法を拡大して、作曲家の本居長世や尺八の吉田晴風らとともに、洋楽の形式に邦楽を融合させた「新日本音楽」の運動をおこしました。

本居長世は、「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「青い目をしたお人形」を作曲した人物で、感傷的で独特なメロディを聞いた方も多いのではないでしょうか。

され、道雄は、十七絃・新胡弓・八十絃などの新楽器を創出するなどして、その名声は世界にまで広がっていきました。

代表作『春の海』のほかにも、『水の変態』『秋の調』『越天楽変奏曲』『日蓮』などの優れた楽曲を残すいっぽう、随筆家としても知られています。

宮城は昭和31年(1956)6月25日未明、演奏会のために大阪へ向かう途中に東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、62歳の生涯を閉じたのです。

その衝撃的な死は、新聞などで大きく報じられて、そのあまりにも突然すぎる死を悼んだのでした。

タイプライターを打つ宮城道雄(『夢乃姿』宮城道雄(那珂書店、昭和16年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【タイプライターを打つ宮城道雄『夢乃姿』宮城道雄(那珂書店、昭和16年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

ここまで小笠原長育の牛込北町邸と、田山花袋ゆかりの北町と中町の様子をみてきました。

次回は、牛込袋町の小笠原富喜親子が暮らした袋町邸についてみてみましょう。

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