前回は名門小笠原家の歴史をみてきました。
名門とはいえ、権力争いに巻き込まれたり、内部抗争が激しかったりして、大きく発展するには至っていません。
今回は、松尾小笠原家の関ケ原とその後をみてみましょう。
小笠原信嶺(のぶみね・1547~1598)
小笠原信嶺は天文16年(1547)小笠原信忠の子として信濃国松尾城に生まれました。
伊那松尾城主として小笠原信嶺は武田信玄に属していましたが、ここに天正10年(1582)3月に織田信長・徳川家康連合軍が武田領に侵攻してきます。
すると、すぐさま武田勝頼に背いて信長に奔り、勝頼の弟の猛将・仁科盛信が護る信濃国高遠城攻めの先導役を務めました。
本能寺の変
そして家康により本領を安堵されて、信嶺は松尾城を領することとなりました。
天正12年(1584)家康が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、家康の重臣・酒井忠次に従って小牧城を守っています。
このことが縁となって、天正16年(1588)8月、信嶺に世子がありませんでしたので、家康の命により忠次の三男信之を婿養子に迎えたのでした。
さらに天正18年(1590)の小田原の陣では、家康麾下として奮闘し戦功をあげています。
そして小田原の陣が終わると、徳川家が関東へ移ることとなり、小笠原家もこれに従い移封しました。
こうして信嶺は武蔵国本庄1万石を与えられて大名となり、ここに本庄藩が成立したのです。
その後、信嶺は慶長3年(1598)2月19日に52歳で亡くなりました。
小笠原信之(のぶゆき・1570~1614)
小笠原信之は、元亀元年(1570)徳川四天王の一人として名高い酒井忠次の三男として三河国に生まれました。
幼少のころから家康に仕え、天正16年(1588)8月、信嶺に世子がありませんでしたので、家康の命により信嶺の娘を室に迎えて養嗣子となったのは前にみたところです。
その後、慶長3年(1598)養父信嶺の死去に伴い家督を相続しました。
慶長5年(1600)7月の上杉景勝征伐のときには、徳川秀忠に従って下野国宇都宮へ出陣します。
小笠原家の「関ケ原」
そして徳川家康本隊が7月24日に下野国小山に着陣したときに、石田三成が畿内や西国の諸将と語らって家康打倒の兵を挙げた一報が伝わったのです。
こうして天下分け目の関ヶ原へと続くわけですが、家康は秀忠に東山道を進む徳川方の総大将に任じて大軍を率いさせました。
東山道を進む秀忠は、真田昌幸・信繁(幸村)父子の計略によって信濃国上田城で足止めされたことは御存じの方も多いはず。
そして信之も、秀忠のもとで上田城攻撃に参加したのです。
その後は秀忠軍から離れて、美濃国岩村城の抑えとして信濃国妻籠城に入り、周辺の一揆勢と交戦し、苦戦の末にこれを破りました。
そして、9月15日に関ケ原の合戦では東軍勝利となったものの、秀忠軍は戦いに遅参したのは皆さんもご存じでしょう。
下総国古河に移封
慶長10年(1605)4月、秀忠の上洛に供奉し、将軍宣下の参内にも供の列に加えられるとともに、従五位下左衛門佐に叙任される栄誉の浴します。
さらに、慶長17年(1612)6月には1万石を加増されて下総国古河2万石へと転封となったのです。
下総国古河といえば、かつて古河公方が本拠を置いた関東の要地ですので、信之がいかに将軍家から深く信頼されていたのかがうかがえますね。
しかしその2年後の慶長19年(1614)4月26日、45歳の若さで急逝してしまいました。
小笠原政信(まさのぶ・1607~1640)
小笠原政信は慶長12年(1607)に信之の嫡男として、先代信嶺の娘を母として武蔵国本庄に生まれました。
慶長19年(1614)4月に父・信之の急逝にともなって8歳で家督を相続しています。
家督を継いでまもない慶長19年(1614)10月の大坂冬の陣では、上野国高崎藩主酒井家次に属して近江国佐和山城を守りました。
そして翌元和元年(1615)大坂夏の陣でも酒井家次麾下として伏見城を守備しています。
また、元和3年(1617)4月には、日光東照宮の社殿が竣工による二代将軍秀忠が日光社参する際に、古河城に止宿、政信が饗応にあたりました。
そして元和5年(1619)10月には加増されて下総国関宿2万2,700石へ転封となります。
関宿は江戸城の北を守る重要な城ですので、小藩譜代とはいえ将軍家からの信任が厚かった証拠とみてよいでしょう。
ところが、寛永17年(1640)7月2日、政信は34歳の若さで急逝してしまったのです。
苦難の末、ようやく徳川将軍家の信頼を得るものの、当主が次々と夭折する不幸に見舞われた小笠原家。
このあと、どうなってしまうのでしょうか。
次回は、幼くして家督を継いだ小笠原貞信の時代をみてみましょう。
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