小笠原家久松町邸跡を歩く 前編【越前国勝山藩(福井県)46 】

《最寄駅:都営浅草線 東日本橋駅・人形町駅、都営新宿線 馬喰横山駅・浜町駅、東京メトロ日比谷線 人形町駅、》

勝山藩は、幕末に大名小路に上屋敷、本所横川端に下屋敷を構えていました。

このうち上屋敷は明治に入って久松町に移転しています。

この上屋敷が廃藩置県後に小笠原家の邸宅となったのです。

今回は、かつての日本橋区久松町、現在の東京都中央区久松町9・10番地にあった小笠原家久松町邸跡を訪ねてみましょう。

なお、邸宅跡地から半径400m以内に最寄りの5駅が集中していますので、今回は都営新宿線浜町駅を出発地、都営浅草線人形町駅を終着地とするコースとします。

久松町邸コースマップの画像。
【久松町邸コースマップ】

(グーグルマップは、勝山藩久松町上屋敷跡に建つ久松小学校を示しています。)

浜町公園銀杏並木の画像。
【浜町公園銀杏並木。晩秋の黄葉は見事です。】

浜町公園

都営新宿線浜町駅A2口から地上に出ると、西側には銀杏並木、東には広大な公園がみえてきました。

これが浜町公園で、江戸時代には肥後国熊本藩上屋敷があったところです。

明治になってからも細川侯爵家の壮大な邸宅と家作が広がっていましたが、関東大震災で甚大な被害を受けたことから、復興事業で都市型公園として整備されました。

「明治座」(『東京ガイド』(写真通信会、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大正時代初めの明治座『東京ガイド』(写真通信会、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション】

明治座

並木道を西に進むと、清州橋通りとの北西角に明治座がみえてきました。

明治座は江戸時代末に富田三兄弟が両国橋畔で「三兄弟の芝居」を菰張の小屋で興行したことにはじまります。

そして、明治6年(1873)に両国橋畔での興行禁止にともなって、久松町に喜昇座を開くことになりました。

その後は、明治12年(1879)には喜昇座を大規模に改修して久松座と名を改めますが、火事や台風被害によって廃止されてしまいます。

九代目市川團十郎(『珍しい写真』永見徳太郎 編(粋古堂、1932)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【九代目市川團十郎『珍しい写真』永見徳太郎 編(粋古堂、1932)国立国会図書館デジタルコレクション 】
五代目尾上菊五郎(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【五代目尾上菊五郎「近代日本人の肖像」国立国会図書館】

これを明治18年(1885)千歳座として再建、九世市川團十郎や五世尾上菊五郎、初代市川左団次といった名優が出演する人気の芝居小屋となったのでした。

ところが明治23年(1890)に再び全焼してしまいます。

明治26年(1893)に左団次が私財を投じて再建、明治座と改称しました。

初代市川左団次(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【初代市川左団次「近代日本人の肖像」国立国会図書館】

そして左団次はこの座を拠点に活動して、歌舞伎座に移った団十郎、菊五郎と対抗したのです。

大正12年(1923)関東大震災で焼失し、現在地に移りますが、東京大空襲でまたもや焼失。

「昭和10年頃の明治座」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「昭和10年頃の明治座」『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション】

昭和33年(1958)に再建されたのち、平成5年(1993)に現在の高層ビルに建て替えられて新装開場ました。

現在も芝居の一大拠点として人気を博し、地域のランドマークとして親しまれています。

小笠原家久松町邸跡へ

明治座を後にして、清州橋通りを北東方向の浅草橋方面へ進みましょう。

すると、150mほどで久松町交差点に到着、この場所が小笠原邸の南東隅にあたっています。

清州橋通りは関東大震災からの復興事業でつくられた大通りですので、屋敷は道の半ば近くまで広がっていたのです。

清州橋通りの西側をさらに北上してみましょう。

久松町邸跡、南東からの画像。
【久松町邸跡、南東の浜町1丁目交差点から

すると、およそ100mで浜町1丁目交差点につきますが、その手前までが小笠原邸でした。

邸宅北端近くの路地を左折し、突き当りまで進みましょう。

すると、丁字路にぶつかりますので、これを右手北方向に曲がります。

久松町邸西端の道、南からの画像。
【久松町邸西端の道、南から】

この道が小笠原邸の西端にあたる道で、勝山藩上屋敷のときにはなかった道で、小笠原家邸宅と上地した部分を分けるためにできたのかもしれません。

この道をさらに北に進むと、再び丁字路に行き当たりますので、これを左の西方向に曲がって進むと、まもなく道の左手に久松小学校がみえてきます。

開校まもない久松小学校(「東京小学校授業双六」安藤徳兵衛(網島亀吉、1878)国立教政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション )の画像。
【開校まもない久松小学校「東京小学校授業双六」安藤徳兵衛(網島亀吉、1878)国立教政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション 】

久松小学校

久松小学校は明治6年7月に、東京市日本橋区久松町38番地の越前勝山藩主・小笠原長守屋敷跡に第一大学区第一中学区二番久松小学校として開校しました。

明治時代終わりの久松小学校(『日本橋区史 参考画帖第1巻国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治時代終わりころの久松小学校『日本橋区史 参考画帖第1巻国立国会図書館デジタルコレクション】

設立にあたって伊予松山藩主・久松松平家の久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵から巨額の寄付があったことから、校名に名前をいただいたそうです。(「」参照)

しかし、学校は、大正12年9月の関東大震災により外壁だけを残して焼失してしまいます。

しばらく仮校舎でしのいだ後、昭和4年(1929)5月には震災復興事業によって最新式の校舎が建てられました。

復興校舎の久松小学校外観(『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【久松小学校復興校舎の外観『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション】

しかし、この校舎も、完成からわずか16年後の昭和20年(1945)3月の米軍機による東京大空襲によって校舎は全焼し、書類や書籍の大部分を失うとともに、通学区域の9割以上が焼失するという甚大な被害を受けてしまったのです。

それでも、早くもその年の10月には残留児童を集めて焼失校舎内で授業を再開しています。

校舎は修繕してしばらく使用していましたが、昭和48年(1973)3月には建て替え工事を行い、現在の校舎が完成してます。

久松小学校と伊予松山の久松家とは開校以来の深い縁があって、現在も素敵な関係が続いていますので、ぜひ久松松平家編をご覧ください。

また、この場所にあった高砂橋と元高砂橋については、「東京橋の物語・元高砂橋編」にくわしい記事があります。

久松小学校の画像。
【中央区立久松小学校】

小川橋跡

今度は久松小学校の西端に沿って南東方向へ進みましょう。

この道が小笠原邸の西端にあたる道で、勝山藩上屋敷のときにはなかった道です。

道をまっすぐ進むと、金座通りに出ると、道の右手は久松警察署となっています。

久松警察署の画像。

久松警察署前を通って進むと、金座通りに直行する細長い公園に到着しました。

この公園は、浜町川を埋め立ててつくった久松児童公園で、入り口に「小川橋の由来」碑が設置されています。

小川橋については、「東京橋の物語・小川橋編」をご覧ください。

小川橋の由来碑と久松児童公園の画像。
【小川橋の由来碑と久松児童公園】

次回はこの公園で休憩しながら、勝山藩上屋敷と小笠原邸についておさらいしておきましょう。

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