前回みたように、小笠原家は度重なる水害をきっかけに、美濃国高須からの国替えを願い出た結果、越前勝山へと転封されました。
そこで今回は、小笠原貞信の越前勝山入封をみてみましょう。
小笠原家勝山入封
小笠原貞信が元禄4年(1691)8月18日に勝山へ入部したときの領地高2万2,777石、領地は大野郡の内52ヶ村となっています。
前にみたように、勝山は幕府代官の支配地となっていましたので、旧城地に陣屋がおかれていました。(第12回「猫の目領主の勝山領」参照)
貞信はこの陣屋を藩主の館に定めて家臣の屋敷を整備し、城下町の整備を行っています。
そして、村岡山を御立山となして、遠祖貞宗が創建した開善寺を城下に建てて墳墓の地としました。(『福井県史』『林毛川』)
貞信の悪評
ところで、貞信とはどのような人物だったのでしょうか。
『土芥寇讎記』によると「文ニモ非ズ、武ニモ非ズ。不行跡ニ遊楽ヲ叓トシ、衣食ノ美ヲ好ミ、剰へ男色・女色ニ溺レ、吾ハ悪ニシテ、家民ノ不善ヲバ咎メテ、稠シク沙汰ス。」
『諫懲後正』には「文道武道トモニ学バズ、平生遊楽ニシテ、只衣食ノ美ヲ好ミ、養児少女ヲ愛セラル」と評しており、極めて評判がよくなかったことがわかります。
案外、このことが響いたのでしょうか、美濃の沃野から雪深い勝山への移封には、ひょっとすると左遷の意味合いもあったのかもしれません。
しかも城持ち格に復することを狙って国替え願いの結果が、城が廃された勝山への移封は、貞信の面目をなくすようなもの。
ですから、きっと心中では大いに不満であったに違いありません。
勝山入封
さて、元禄4年(1691)8月18日、小笠原貞信は、足軽まで含めて家臣567人を引き連れて勝山に入ります。
家臣は信濃松尾以来の「譜代」もわずかにいましたが、大半が本庄・関宿・高須と小笠原家の領地が変わる先々で仕官した者たちでした。
いきなりの財政危機
雪深い勝山では、藩財政に余裕がないと見込まれていましたので、高須時代には最高で500石の知行があったものも井上平右衛門の400石を筆頭に知行高を引き下げを実施。
さらに、勝山で新たに召し抱えるものも、藤田太兵衛などわずかに抑えながら、家臣団の職制を整えました。
しかしながら、勝山地域には勝山藩領以外にも、幕府領や郡上藩・鯖江藩そして福井藩が置かれて支配が分割錯綜していたのです。
いっぽうで、小藩にもかかわらず、譜代帝鑑間詰と格式が高く、元禄5・6(1692・93)年に大坂城番を命じられたように譜代藩として役目も多いことで出費もかさんで、勝山入封時からすでに藩財政は苦しいものでした。
大リストラ断行
そこで貞信は、はやくも勝山に入封した8月には300石の伴庄右衛門ほか三名に暇を申し付けたり、追放や家断絶を次々と命じるという「藩士のリストラ」を断行したのです。
それでも家臣への総支出は米5,063石7斗5升、麦6石5斗、金839両2歩に達しました。
これに対して藩の収入は幕府代官領時代の租税法を踏襲すると、あわせて銀14貫886匁3分3厘、米507石9斗9升2合7勺、糠565俵、藁1610余束、生炭11俵、下々綿830匁でした。
大増税
藩の支出は、先の家臣への支出のほかにも江戸屋敷にかかわる支出も大きく、この収入では賄うことができません。
そこで貞信は、年貢率を引き上げる大増税を発表します。
一例をあげると、元禄元年と5年の毛付免を比べると、勝山町では28.5%から40.5%に、猿倉村では39.3%から50.6%と、幕府領時代から比べると、10%あまり一気に上昇することとなったのです。
元禄検地
さて、勝山に入封した小笠原家でしたが、いきなり財政危機に見舞われて大増税を計画しました。
これでは領民が新しい領主に反発するのも当然といえるでしょう。
ただし、いきなり年貢率だけを引き上げるのは困難ですので、租税徴収のもととなるデータを集めて把握する必要があります。
そこで勝山藩は、元禄9年(1696)には領内で検地を実施して、かつて実施された太閤検地のデータを改訂してより高い石高を打ち出すとともに、あわせて年貢率を上げようともくろんだのでした。
藩はこのほかにも財政困難を理由に、町方へ御用金や御用米を申し付けたうえに、先売金や米駄賃(想定外の年貢運搬のための人夫米)までも課したのです。
今回見たように、小笠原貞信の勝山入封は、小笠原家にとっても経済的にマイナスでしたが、いっぽうこれでは勝山の領民にとっても歓迎できないのはいうまでもありません。
ところが貞信は、藩財政問題を解決するのに大増税を強行しようというのですから大変です。
次回は、貞信の藩政に対する領民たちの答えともいえる元禄一揆についてみてみましょう。
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