前回みたように、明和事件に連座して、織田家は国替え、山県大弐は死罪、吉田玄蕃は切腹という厳しい処置がとられました。
今回は、謎の多い明和事件についてちょっと深堀してみましょう。
まずは主人公ともいえる山県大弐という人物から。
山県大弐とは
山県大弐(やまがた だいに1725~1767)は甲斐国の生まれで名は昌貞、字は子明、号を柳荘で大弐は通称です。
山王権現の神官加賀美桜塢(おうう)に山崎闇斎派の朱子学を、医師五味釜川(ふせん)に医学を学び、18歳で京都に遊学。
村瀬軍治の名で甲府城勤番与力となるものの、弟が殺人逃亡を図ったために改易されて山県姓に復しました。
江戸で若年寄大岡忠光に仕えましたが、忠光の死去後に辞去、江戸八丁堀長沢町に家塾を開きます。
おもに古文辞学の立場から儒学や兵法を講じ、医学さらには天文学にも通じる大弐は人気を博して数百人もの門人が集まりますが、その中に小幡藩の家老吉田玄蕃や家臣がいたのです。
大弐は宝暦6年(1756)には『柳子新論』を著わしたのですが、その中で朱子学的大義名分論に依拠して「天に二日なく、民に二主なし」と尊王論を説き、幕府高官の賄賂を痛烈に批判しました。
こうしてみると、幕閣が自分たちに都合の悪い人物である山県大弐たちを処罰するのが真の目的で、小幡藩のことはその口実かも?という気がしてきました。
では、なぜ幕府は過剰ともいえるこれほど神経質な対応を取ったのでしょうか?
この謎を解くためには、明和事件の少し前に京都で起こった宝暦事件を見ておく必要がありそうです。
宝暦事件の影
この事件は宝暦8年(1758)に竹内式部が幕府に処罰されたものです。
この竹内式部は強烈な尊皇論者で、彼の大義名分論の講義を受けた大徳寺公城ら公卿十数人は幕府の専横に強い不満を持っていたことから式部の主張に共鳴して、侍講を説得して式部に桃園天皇へ進講させるという幕府驚愕の事件が発生します。
この事態を重く見た関白一条道香が朝廷内の秩序が乱れることを恐れて近習公家27人を罷官・謹慎処分とし、さらにこれを京都所司代に訴え出た結果、竹内式部らを京都から重追放に処したのです。
この事件、じつは朝廷内の四摂家と中下級公家の対立や、公家の世代間対立が複合的に合わさったもので、あくまでも朝廷内の内紛でした。
しかし、山崎闇斎派の朱子学を実際に朝廷に持ち込んで幕府の権威を否定するという言説は幕府にとって極めて危険であることは言うまでもありません。
幕府の明和事件への対応
宝暦事件は、結果的に事件は朝廷内で自律的に処置したのですが、持ち出された思想の内容と、部隊が朝廷であった点で、幕府へ与えた衝撃は少なくなかったのです。
だからこそ、明和事件で宝暦事件において処罰された藤井右門がかかわっている事実は、幕府に宝暦事件を意識させるには十分だったのでしょう。
そして老中松平輝高・阿部正右二人が指揮する8カ月にもおよぶ大規模な調査を断行したのです。
ところが、ふたを開けてみれば、医師宮沢準曹や浪人桃井久馬たちが提出した文書はずさんそのもの、ほとんど根も葉もないものでした。
こうして幕府は、振り上げたこぶしを下すことができなくなっていまい、山県大弐と藤井右門らに言いがかりに近いような理由で厳しい処置を下し、それでも足りずに小幡藩織田家にも厳しい処置を下すことになったのではないでしょうか。
いわば明和事件における幕府の恐怖にも似た感覚は、事件とは何の関係もない宝暦事件の主役・竹内式部に対して重追放の処罰を守っていないと言いがかりをつけて、さらに遠島の処置を下したことにも表れているように思います。
いわばとばっちりを受けた形の竹内式部は、八丈島に向かう途上の三宅島で病没してしまいます。(今回の内容は、『群馬県史』『物語藩史』および『国史大辞典』と『地名大辞典』の関連項目をもとに記しました。)
宝暦事件と明和事件の影響
二つの事件は、全く関係がないはずの事件、しかし幕府の恐怖がこれをつないで増幅させたのは前にみたとおりです。
さらに、この事実が思わぬ効果を生むことになりました。
幕府による竹内式部と山県大弐への厳しすぎる処置は、逆に彼らの抱いた尊皇の思想を広く世に知らしめるアナウンス効果を生んだのです。
長い目で見るならば、彼らの思想は全国に広く深く浸透して根付き、高山彦九郎をはじめとする勤皇家出現へとつながっていきました。
そうした意味では、竹内式部や山県大弐の遺志がかなったとも言えます。
しかし、このような事件の側面が言われ出すのは幕末ですし、盛んに喧伝されるようになるのは、実は明治時代に入ってから。
二つの事件はすっかり結び付けられるとともに、尊皇運動の嚆矢、そして幕府による尊皇運動弾圧の最初の事件とみなされて称賛されることとなり、学校教育などに積極的に取り入れられていきました。
こうして、式部と大弐は、近代天皇制が国民全般に浸透するのに大きな役割を果たすことになるのです。
織田家のダメージ
さて、ここで改めて織田家に話を戻しましょう。
明和事件の結果、貧乏な小藩のプライドを支えていた特別待遇が廃止されたのですから、その意気消沈ぶりは相当なもの。
しばらくは、再び特別待遇を幕府に求めるほかは何も手につかないありさまとなってしまいました。
ところが、明治に入って宝暦事件と明和事件が称賛されるようになると、吉田玄番と山県大弐の交遊をもって織田家における尊皇運動の台頭と評価されるようになり、そこから先祖信長からの尊皇思想の遺風だとか、栄光ある織田家の家格から徳川家の風下にたつのを内心潔しとしていなかった、などの言説が生まれるようになったのです。
こうして織田家の尊皇の伝統が言われるようになるのですが、実は吉田玄番は山県大弐の尊皇思想そのものにはほとんど共感していない点は忘れ去られているのが不思議に思えてなりません。
だからこそ、幕府は吉田玄番をおとがめなしの無罪としたのですが、藩として玄番を切腹させたのは、幕府の処置へのある意味報復なのかもしれないなどと想像してしまいます。
さて、織田家はこうして上野国小幡から出羽国高畠へと国替えとなりました。
次回は、織田家の高畠時代を見ていくことにしましょう。
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