前回、空前の繁栄を迎えて宗教都市にまで成長した平泉寺をみてきました。
そこで今回は、平泉寺繁栄の終わりをみてみましょう。
村々の新しい姿
中世になると、農業技術の進歩や経済の発展によって商工業が発達していきました。
このことを背景に、畿内周辺では神社の宮座などを基にして、農民の自治的団結体が現れます。
これを「惣」や「惣村」と呼びますが、こうした村々が集まって自治的に団結して「惣郷」が生まれました。
荘園制のもとで生まれた新しい村々のかたちを「郷村制」と呼んでいます。
畿内周辺では、この「惣郷」がもとになって、強訴や一揆といった農民闘争が行われたのでした。
越前の場合
越前の場合をみてみると、ちょうど蓮如が吉崎に浄土真宗布教の本拠地を置いたこともあって、郷村制と一向宗が結びつく場合が多くありました。
逆に言うと、蓮如の布教によって浄土真宗(一向宗)に教化を受けてできた結びつきがもとになって郷が生まれたり、郷の結びつきをさらに強めたりした場合が多くあったのです。
つまり、越前では、一向宗の広まりが郷村を成長させることになったともいえるでしょう。
村岡山
こうして勝山でも一向宗が広まるとともに郷村が広がっていきました。
そして勝山でも北袋53ヶ村を数えるまでになり、地域の一大勢力にまでなったのです。
ついに、天正2年(1574)春、北袋の一向宗は、越前門徒の応援を得て、村岡山に立て籠もり、平泉寺の支配に対抗します。
というのも、前年に織田信長によって朝倉家当主の朝倉義景が大野で自害に追い込まれて、後に見るように支配体制が不安定となっていました。
じつは、信長の侵攻時に平泉寺は織田方に寝返って朝倉義景の救援要請を断っていたのです。
しかし、前にみたように朝倉家と強いつながりを持つものも多く、山内は動揺が収まる状況ではありませんでした。(第8回「越前一揆」参照)
北袋の一向宗がこのスキを見逃すはずはなく、越前各地の門徒から支援を仰いで、宿敵の平泉寺と朝倉景鏡打倒の旗を掲げたわけです。
こうして七山家(現在の勝山市北谷町一帯の、中尾村を除く七ヶ村)および保田の島田将監を大将とする近郊の農民たちが参加して、4㎞ほど離れた平泉寺へ攻撃の構えをみせつつ村岡山に城を築いて籠ったのでした。
平泉寺炎上
平泉寺は、信長は以下となった朝倉景鏡と連合して村岡山の城を囲み攻め立てましたが、団結の強い一向宗が屈することはありません。
こうして村岡山での攻防が行われているすきに、一向宗側は別動隊を準備して、手薄となった平泉寺を襲撃したのです。
これに慌てた平泉寺と景鏡の連合軍は、平泉寺防衛へと急行しようとしたのですが、軍勢の足並みは乱れ、大混乱に陥ってしまいました。
ここにきて一向宗側が猛攻を加えると、景鏡は討ち死にするとともに平泉寺と景鏡の連合軍は壊滅、平泉寺は全山が炎に包まれてしまったのです。
こうして宿敵を打ち破った北袋の一向宗は、勝利を記念して、村岡山を「かち山」と名を改めて祝ったのでした。
その後の平泉寺
いっぽう、全山が焼失した平泉寺は急速に衰えます。
その後、平泉寺は豊臣秀吉などから支援を受けて、なんとか再興を果たしました。
さらに江戸時代に入ると、福井藩や勝山藩から寺領の寄進がありましたが、白山神社と6坊2ヶ寺と繁栄時の足元にもおよびません。
こうしたなか、明治時代に入ると神仏分離令が出されたことにより、寺院を廃して白山神社に集約、寺院の僧も還俗して神官となったのです。
そして、ここから最初にみた歴史学者の平泉澄が生まれ、敗戦後に彼が東京帝国大学を追われると、故郷の勝山に戻って、白山神社の宮司となったのです。(第1回「勝山に行こう!」)
ここまで中世に勝山地方を支配した平泉寺の歴史をみてきました。
次回は、天正2年(1574)の北袋一向宗勝利まで時間を巻き戻して、勝山の歴史をみてみましょう。
《第3回から7回の平泉寺については、『福井県史』『福井県史蹟勝地調査報告 第二冊』『角川日本地名大辞典』『福井県の歴史』『白山平泉寺 よみがえる宗教都市』に基づいて執筆しています。》
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