前回は、立花伯爵家二代にして立花家第十四代当主立花鑑德についてみてきました。
今回は、その一人娘、文子についてみてみましょう。
立花文子
立花文子(あやこ)は、明治43年(1910)6月1日に立花鑑德の二女として東京で生まれました。
徳川(田安)達孝三女の艶子です。
長女惇子は一歳で死去していましたので、実質的には一人っ子でした。
立花種勝
ところで、鑑德には惇子、文子と女子が生まれて、男子がありませんでした。
そこで、立花家分家の子爵立花種忠長男・種勝(明38、9生)を養子にむかえています。
ところがすぐに縁組は解消されますが、これは立花子爵家に男子が生まれなかったためでしょう。(『人事興信録 第9版(昭和6年)』)
ちなみに、種勝はこのあと立花子爵家の嫡男となり、北白川宮家成久王第一王女・美年子女王が降嫁したことでも知られています。
文子の教育
鑑德は長女惇子が一歳で死去したこともあって、二女の文子を「丈夫に育てたい」とスパルタ教育をしたといいます。
そのかいあって、健康そのものに育った文子は、父・鑑德が家督を継いで柳川に還るのに従って柳川へ引っ越します。
そして学齢期になると、華族子女としての自覚を養うために、鑑德は文子を上京させて女子学習院に入学させました。
学校では、父がテニスを趣味としていた影響か、テニスが得意な女性に育ちます。
そして、昭和8年(1933)には全日本ダブルスで優勝する快挙を成し遂げたのです。
こうして文子は、女子学習院高等科を卒業しました。(『華族家庭録 昭和11年12月調』)
文子の結婚
卒業した文子は、昭和9年(1934)に島村和雄と見合いをします。
和雄は海軍元帥島村速雄男爵の次男で、帝室林野局の木曾御料林の王滝出張所に勤めていた好青年。
しかも帝室林野局は、皇室の財産を守る、華族に最もふさわしいとされた仕事の一つだったのです。
このお見合いは、出張所長の大久保寛一子爵の紹介で、見合いの席も木曾の大久保宅に設けられました。(『華族総覧』)
そして和雄は、「お姫さま然としていないところが気に入って」結婚を決意したといいます。
ここでちょっと和雄の父、島村速雄元帥についてみてみましょう。
島村速雄
島村速雄は土佐藩士の子として高知城下で産まれ、海軍兵学校を卒業、イギリスに留学しました。
草創期の日本海軍において戦術研究の中心的役割を果たしましています。
そして日清戦争に常備艦隊参謀として参加し、黄海海戦で戦傷を負いました。
また、日露戦争では第1艦隊参謀長を勤め、東郷平八郎に深く信任されていたのです。
島村の数ある戦績の中でも、最も知られているのが次の日本海海戦での出来事でしょう。
日本海海戦の前に、ロシアバルチック艦隊の行動が不明となったとき、連合艦隊司令部では敵艦隊が津軽海峡方面に迂回したものと判断していました。
まさに出航して北に向かおうとしたのを島村が止めて、鎮海湾での待機を東郷に強く進言します。
東郷が島村の意見を入れた結果、連合艦隊はバルチック艦隊に対馬海峡で遭遇することに成功し、大勝利につなげることができたのです。
これらの功により、大正4年(1915)には海軍大将にすすみ、翌年には男爵を授けられています。
さらに大正12年(1923)に目黒の自宅で死去すると、元帥の称号が贈られました。(『日本人名大事典』『国史大辞典』)
今回は、立花家第十四代当主・立花鑑德の一人娘である文子が、島村速雄元帥の次男・和雄とお見合いして結婚を決意するまでをみてきました。
和雄と文子はどのような家庭を築くのでしょうか。
次回は二人が歩んでいく長い道のりについてみてみましょう。
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