前回みたように、小笠原氏が勝山に入封した時点で、すでに藩財政は危機的状況にありました。
そこで大増税を計画するものの、元禄一揆によって試みは挫折します。
しかし、勝山藩の財政状況がひっ迫している状況は変わりません。
そこで今回は、再び増税を目指した藩に対して領民が起こした明和一揆をみてみましょう。
明和八年一揆
江戸時代も開始から150年を過ぎると、盤石を誇った幕藩体制にも動揺がみえはじめます。
越前国内でも、宝暦6年(1756)には今立郡・丹生郡の天領で代官と組頭の不法に端を発する大規模な農民一揆が起こりました。
さらに、明和5年(1768)には福井藩で年貢増徴と御用金に反対して、二万を超える領民が参加した大規模な一揆、いわゆる「蓑虫騒動」が起こって藩が要求をのまざる得ない事態となっています。
こうした周辺地域の情勢が、勝山にも大きな影響を与えたのです。
幕府指導の大増税
このころになると、藩財政のひっ迫は誰の目にも明らかな状態にまでなっていました。
そこでついに明和8年(1771)8月、藩はこれまでの定免制から検見制に変えて、年貢の増徴を図る決断をします。
この決意が並のものでないのは、ひそかに幕府の指導を受けていたことでわかるでしょう。
そして、わざわざ幕府の地方役渡辺仙左衛門と鵜沢丈兵衛を勝山に招いて指導を受けたのです。
もはや藩財政のひっ迫を幕府にさらしてまで改革するとは、藩の決意のほどが見て取れるのではないでしょうか。
藩の「奇襲」
まず藩は、8月7日に抜き打ちで近隣27ヶ村の庄屋・長百姓・惣代を藩会所に招集して、ただちに新法検見制の承諾を迫ります。
しかし、庄屋たちは即答を拒み、村に帰って相談したいと言い張ったのです。
藩はしかたなく、翌朝五ツ時までに請書を差し出す約束をさせたうえで帰宅を許しました。
ところが、翌朝になって会所に出頭した庄屋たちは、請書を差し出すどころか、「畏れ奉り候」と低頭するばかり。
一揆勃発
そうしたところへ、藩内で最大の寺院であった尊光寺に村人たちが集まって相談しているとの情報が寄せられます。
あわてた藩は、庄屋などが出頭した20ヶ村を除く領内の32ヶ村へ庄屋の出頭を命じますが、彼らはやってきません。
それどころか、夕刻になると尊光寺に集まった村人たちが、近くの九頭竜川原松原に移ると、かがり火をたいて気勢を上げはじめたのです。
幕府の役人二人は出向いて必死に庄屋たちを説得しますが、一向にらちがあきません。
それどころか、夜半になるとかがり火に群衆が集まって解散を命じても聞く様子がなかったのです。
これに庄屋たちは強気になって、新法を中止する奉行署名の書付を求める始末。
藩では騒ぎが大きくなるのを懸念しつつも、幕府地方役の目前でこのような事態になったことで狼狽します。
「徒党にあらず」
そこでおずおずと、幕府地方役の二人に、この状態は禁止されている「徒党」ということになるのか尋ねてみたのです。
二人の回答は、「大勢で相談できる場所がないから川原に集まっただけで「徒党」ではない」としたうえで、もはや手に負えないので、早く願いを聞き届けてやるよう述べざるを得ませんでした。
こうして藩は新法撤廃を発表するとともに、幕府地方役には江戸へご帰還願い、農民たちの恨みを買っていた「悪徳」商人の打波屋伊八を追放して農民たちを懐柔したのです。
そしてようやく騒動は収まり、一揆は成功に終わったのです。
一揆成功の理由
ところで、どうしてこの一揆は一名の処分者を出さずに大きな成果を出したのでしょうか。
まず、村役人層の主導により、組織的に整然と遂行されたことが挙げられます。
川原に集合した農民たちは村ごとに集まっており、統制が採れていました。
また、事前に町の酒屋へは農民たちにいっさい酒を売らないように頼むことまでしていたのです。
町の人々は、群衆がこのまま町になだれ込むことを恐れて、9日の朝と昼に町の有力者たちで握り飯を農民たちに運ぶと、これをもって農民たちは村々へと引き上げました。
騒動が納まった後、参加者への処分は一切なく、藩はわずかに全52ヶ村の庄屋と御目見百姓に対して、以後はけっしてこのようなことはしないという請書を差し出させて終わりとしたのです。
ここまで勝山で頻発した一揆についてみてきました。
次回は、ひっ迫した藩財政の中で、歴代藩主がこだわりぬいた勝山城再建の夢のゆくえを追ってみることにしましょう。
《今回の記事は、『福井県史』『物語藩史』『日本地名大事典』『国史大辞典』『福井県の歴史』に基づいて執筆しました。》
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