前回、七代藩主信邦が、藩財政の危機を打開すべく、吉田玄蕃を大抜擢して藩政改革の任につけたところまでを見ました。
今回は、織田藩小幡藩が引き起こした大事件、明和事件についてみていきましょう。
明和事件のあらまし
明和事件とは、明和4年(1767)幕府が山県大弐・藤井右門・竹内式部ら三十余人を処罰した事件です。
事件の中心人物の山県大弐は江戸で儒学や兵法を教えていましたが、門人の藤井右門とともに謀反を企てていると密告があり、軍学の講義や著作で幕府を批判したかどで処罰されました。
じつはこの事件の発端となったのが、小幡藩織田家でした。
それでは、事件の経緯をもう少し詳しくみてみましょう。
松原郡太夫らの密告
藩財政が破綻寸前にまで追い込まれた小幡藩七代藩主信邦は、吉田玄蕃を大抜擢して藩政改革の任につけたのは前回みたところです。
この吉田玄蕃はまだ三十歳くらいと若かったものの、学問を好み改革の強い志を持っていたことが年若い藩主・信邦の信望につながって藩政改革にあたることになりました。
さっそく領民の課役を軽減するなど効果的な対策を打つのですが、改革に反発があるのはもちろん、年若い玄蕃がこれを行うとあっては、妬みややっかみを含めて、年長の家老や重臣たちの反感を買うにおよぶのは自然の流れといえるでしょう。
ことに、玄蕃と用人格の松原郡太夫との対立は深刻で、ついには家老拓源四郎と郡太夫らが玄蕃失脚をねらって「謀反の疑いあり」と藩主信邦に密告するとともに藩中に言いふらすという行動に出たのです。
吉田玄蕃と山県大弐
この密告の口実となったのが、山県大弐でした。
大弐は玄蕃と交遊するようになり、織田家の菩提寺である駒込高林寺の座敷で月三回、講義を開いていました。
そこで大弐が玄蕃に諸国の要害について攻守の軍略を講じ、その兵法が極めて明解であるのに感服し、数人の若い家臣を門下生として大弐に託したのです。
そして大弐の講義の中で、甲府城や箱根山の図について攻略法を上げることがありました
これを耳にした郡太夫は、幕府にとって随一の要害である箱根の攻守軍略を説くのは幕府に含むところがあると藩主信邦(一説にはその父・信栄)に密告したのです。
この密告に驚いた藩当局は内々に取り調べを進め、重臣評定のうえ「権高で役柄不相応」として玄蕃有罪と決め、職禄および屋敷を取り上げて蟄居を申し渡しました。
事件の拡大
これで事が済むと思いきや、事態は思わぬ方向に発展します。
この当時、大弐の家に藤井右門という人物が寄宿していたのですが、この人物がのちに述べる宝暦事件に連座して京都を追われ江戸に来ていたのです。
この右門、大弐の能力を広く売り込むとともに、甲府城や江戸城攻撃の軍略を論ずるなど過激な言動がありました。
これを耳にした医師宮沢準曹と禅僧霊宗、浪人桃井久馬・佐藤厳太夫は、小幡藩で家老吉田玄蕃が大弐との交遊のために罰せられたことを知ると、大弐と右門らにも謀反の企てがあると考えて自分たちに禍が降りかかるのを恐れて、大弐らの交遊関係者の名を記した書類を作成して、幕府に訴え出たのです。
驚いた幕府はこの事件を「容易ならぬ叛逆」として8カ月にもおよぶ徹底的な調査を断行、関係者三十余名を取り調べるとともに、老中松平輝高・阿部正右がじかに評定で審理するという対応を取りました。
ところが審議の結果、宮沢・桃井らのあげたリストには、全く無関係のものすらあるといういい加減さで、訴えは全くの事実無根あったので、四人を捕らえて遠島としました。
いっぽうで大弐や右門たちの言動が明らかとなって、叛逆の事実はないものの、その言動は危険であるとして大弐を死罪、右門を獄門に処したのです。
織田家に波及
さらに、審議の過程で織田家小幡藩の玄蕃処罰の事情が明らかとなってしまいました。
幕府は、玄蕃と大弐の交遊については問題なしとするいっぽうで、藩当局の行動を問題視したのです。
すなわち、大弐の言動を危険視し不穏な意図があるとしたにもかかわらずよく取り調べしなかったこと、さらにはこれほど重大な事実を幕府に報告せず、内々に済まそうとしたことが問題とされたのです。
織田家の処分
このような藩の態度は公儀をなおざりにする不埒な行為として重い処罰が下されました。
その内容は、藩主信邦は隠居のうえ蟄居、家老津田頼母以下重臣たちはすべて重追放、逃亡した松原郡太夫らも存命の場合は重追放という極めて厳しいものだったのです。
あわてて藩主信邦はわずか二歳の弟・八百八を養子にたてると、石高は減らなかったものの幕府から奥羽への転封が言い渡されるとともに、いままで織田家に認められていた破格の特典はすべて取り上げられてしまいました。
吉田玄蕃切腹
さらに事態はここで収まりませんでした。
幕府からお構いなしの無罪とされた吉田玄蕃が切腹したのです。
玄蕃の切腹については、藩主信邦の命によるとする資料もあり、織田家独自の処置だったのでしょう。
こうして小幡藩織田家がとった自己本位な行動が、明和事件という大事件を巻き起こし、さらにはブーメランのように藩存続の危機を巻き起こしてしまいましたが、織田家は出羽・高畠に転封してなんとか残る事が出来ました。(今回の内容は、『群馬県史』『物語藩史』および『国史大辞典』と『地名大辞典』の関連項目をもとに記しました。)
しかし、明和事件は教科書にも載っている重大事件のわりに、なんだかスッキリしないと思いませんか?
山県大弐と吉田玄蕃はなぜ死ななければならなかったのでしょうか?
織田家はどうしてこのような中途半端な行動を取ったのでしょうか?
幕府はどうしてこれほど厳しい処置をとったのでしょうか?
疑問が次々とおこってもやもやした気分になってきてしまいます。
そこで、次回は明和事件についてちょっと深堀してみましょう。
コメントを残す