前回見付けた、名前のない人道橋が架かる中之堀の歴史をたどってみましょう。
この橋が架かる堀川は中之堀と呼ばれていました。
中之堀は寛永6年(1629)開削といわれ、佐賀町ができた時にはすでにあったと伝えられます。
まずは中之堀川の名前の由来から見てみましょう。
東京郵便電信局『東京市深川区全図 明治三十年十一月調査』1898 国立国会図書館デジタルコレクション(佐賀町部分)を見ながら確認してみましょう。地図の左端が隅田川、その下端に見える橋が永代橋です。
隅田川につながっている川が三本ならんでいますね。この三本のうち、一番上にあるのが仙台堀川です。
次の少し細いのが中之堀川で、一番下手が油堀川と並んでいました。
そこで、当時人々はこの三本の堀川を、一番上流側の仙台堀川を上之堀、逆に下流側の油堀川を下之堀と呼んで、その間にあるこの川を中之堀と名付けたのです。
同じように川の口に架かる橋も隅田川に対して上、中、下と名付けています。
すなわち、仙台堀川には上之橋、中之堀川には中之橋、油堀川には下之堀橋がそれぞれ架けられていましたが、残念ながら、現在はいずれも残っていません。
ここまで、中之堀川の名前の由来についてみてきました。
次は、中之堀川が流れる付近はどんな町だったのかを見ていきましょう。
中之堀川周辺は、元木場と呼ばれる町でした。
町の名のもとになった「木場」というのは、材木の揚げ場としてつくられた木置場です。
寛永18年(1641)、大火により江戸市中に積んでいた材木が類焼したことをきっかけとして、神田や日本橋の35ヶ町の材木問屋たちが幕府に願い出て、はじめてこの地に造られました。
この「木場」が設置されたころの様子を伝える「深川総画図」((部分)江東区教育委員会所属蔵)が案内板に掲示されていましたので転載します。
この図を見ると、仙台堀は開削されていますが、油堀(元禄12年(1699)開削)はまだ一部しか開削されていません。
また、永代橋(元禄11年(1698)創架)が画面右下に描かれています。この頃はまだ、この付近は格子状に細かな掘割が走る様子がうかがえます。
そして元禄12年(1699)に木場が猿江へ移転し、跡地が町場として造成されると、中之堀は堀筋を変えられています。
実はこのとき、深川一帯の水上交通路の大規模な整備が行われたのです。
これは、深津八郎右衛門が普請奉行となって油堀川を開削するとともに、周辺の水路を整理、その一環として油堀川及び仙台堀川に通じる大島川支川を開削、この際に中之堀川を掘り広げるとともに、逆S字の形に整えたのです。
こうして水運の環境が整備さえて、地域はこれを利用する様々な業種の問屋や店が軒を連ねるようになります。
一方、「木場」がどうなったかも見ておきましょう。
猿江に一時移転していた木置場は、早くも元禄14年に現在の江東区木場1~5丁目へ移ることとなり、それに伴って当地は「元木場」と呼ばれ、跡地にできた14ヶ町は元木場町と総称されることになりました。
『江戸雀』に、元木場の様子を伝える記述がありますので、見てみましょう。
「上の橋を渡りて南へ行くに、次郎兵衛町、それより中の橋を渡って藤左衛門町、又一町近くに行きて横手に道有り、行当り稲荷の宮、前の通り南へ行くに、町半町の余有り、下の橋を渡りて助左衛門町。」(『江戸雀』延宝5年)
「行当りの稲荷の宮」すなわち佐賀稲荷神社は、今も地元の方々によって大切に守られています。
木場が移った後、中之堀川周辺は水運に恵まれた特性から、さまざまな問屋や商店が集まり発展し、『江戸雀』で唄われるようにたくさんの町が生まれて賑わっていったのでした。
ここまで中之堀川が誕生したころの様子を見てきました。
次回では、明治維新後に激変する地域の様子を見ていきたいと思います。
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