前回で見つけた八幡橋(旧弾正橋)の謎に挑むために、まずはこの場所についてみてみましょう。
この場所に橋が初めて架けられたのは、富丘八幡宮【写真】が建造された寛永4年(1627)頃と推定されています。
記録としては、享保6年(1721)の「深川橋橋見聞帳」に公儀橋として記されるのが最も古いところ。
また、泉鏡花の作品中にも印象的に描かれていますので、少し長くなりますが引用します。
「横のこの家のならび、正面に、鍵の手になった、工場らしい一棟がある。その細い切れめに、小さな木の橋を渡したように見て取ったのは、折から小雨して、四辺に靄の掛かったためで、、同伴の注意を待つまでもない、ずっと見通しの、油堀川からの入堀の水に、横に渡した小橋で、それと丁字形に真向こうへ、雨を柳の糸状に受けて、縦に弓型に反ったのは、即ちもとの渡船場に変えた、八幡宮、不動堂へ参る橋であった。(泉鏡花『深川浅景』)
江戸時代から、長七間、幅二間の小さな木橋が、油堀川から分かれた堀割りに架かっていました。
富岡八幡宮への参詣に使われていたので、八幡橋という橋の名も自然についたようです。
少しボケていますが、すでに旧弾正橋になった後の江東区の案内板の写真を見ると、雰囲気がよくわかります。
今度は、ゆっくり味わいながら渡ってみましょう。
この橋は、長さ八間二尺(15.15m)幅五間(9.09m)でアーチも小ぶり、全体的に何とも頼りない印象、赤いペンキも剥げかけて、もの悲しい雰囲気さえ漂っています。
橋の構造材も細身で華奢、しかもシンプルな印象ですが、この橋が国産第一号の栄誉ある橋だと思うと、橋を渡る風にもどこか誇らしさを覚えます。
この橋は当初、中央区の楓川(現在の首都高速環状線)に弾正橋として架けられた橋です。
わが国初の政府留学生として米国で土木建築を学んだ松本荘一郎が帰国後、東京府土木掛長だった時に設計した橋で、工部省赤羽製作所で制作されました。
工部省は、明治新政府の施策である殖産興業を中心に推進した中央官庁で、土木、鉱山、製鉄、鉄道、電信、造船など重工業を中心に幅広く我が国の工業化を推進する役目を担っていました。
明治3年に設置されたものの、同18年に廃止と短命でしたが、なかでも赤羽製作所は 旧佐賀藩納付の機械をもって設立された官営の機械製作工場として我が国の工業化に大きく貢献しています。
明治維新後、橋の設計は明治の早い時期から日本人の手で行われてきました。また、橋の製作や施工も日本人の手で行われてきたのですが、材料となる鉄材は明治末まで米国や英国などからの輸入に頼らざるを得ませんでした。
このような状況の中で、明治維新からわずか十年ほどで設計や施工だけでなく、鉄材までもが国産であった八幡橋がいかに先駆的な存在であったかがわかるでしょう。
この橋の背景がわかったところで、改めて橋について見てみましょう。
橋のタイプは、下路式のアーチ・トラス(ボウストリング・トラス)橋に分類できます。
面白いのはアーチが曲線ではなく、折れ線で構成されていること。
各種の本によると、圧縮を受ける上弦材は鋳鉄、引っ張りを受ける斜材や下弦材は、錬鉄で造られているそうです。
えらくシンプルで華奢な感じですが、部材の交わる格点には、花びら16枚を持つ菊の装飾が取り付けられています。
お気づきの方も多いかもしれません、16弁の菊の模様は皇室の紋章なのです。
当時、菊の紋章の使用が許可されたのは、皇室の尊厳を表示する精神的なものにのみでした。
その名残として、現在もパスポートの表紙に菊の紋章が使用されています。
菊の紋章は、単なる装飾的な意味合いを超えて、皇室と国家の威信を示し、天皇に対する尊厳な気持ちを引き起こすシンボル的なサインとして利用されていたのです。
こうしてみると、わが国最初の国産鉄橋の弾正橋は、国家の威信をになった文明開花の象徴として、人通りの多い幹線道路に架けられたといえます。
しかも下路式でアーチが目につくので、この橋が都市景観のシンボルになったのは当然のこと、まさに弾正橋は、菊の紋章を取り付けるにふさわしい橋だったのです。
ここまで、橋にある菊の御紋の謎を解いてきました。
次回では、元弾正橋の波乱万丈な歩みを見ていきたいと思います。
コメントを残す