前回まで、わが国初の国産鉄橋・八幡橋(旧弾正橋)について、その歴史的・土木史的魅力について見てきました。
橋好き・歴史好きの私たちは、この橋を見ると菊の御紋に目が行ってしまいがち。
しかし、この橋の魅力はそれだけではないようです。
今回は、この橋が持つもう一つの魅力を探っていきましょう。
戦後、地元の子供たちはこの橋を「どんどん橋」と呼んでいました。
それは橋桁が敷板のため、走って通るとドンドンと音がしたからだそうです。
ところが現在の八幡橋は、床はコンクリート、手摺は型鋼で仕上げられているのでその感覚はわかりませんが、当時の子供たちにとっては楽しい遊び場だったようです。
この橋に魅了された一人として、成瀬勝武もその一人にあげられるでしょう。
関東大震災後に復興局で活躍した彼は、当時最先端だったコンクリートアーチ橋を得意とする若き技術者でした。
この橋の持つ歴史的重要性だけでなく、先人たちの仕事に敬意を表する意味でもこの橋の保存に力を尽くしたのだと思います。
現在の橋に戻って、いよいよ橋から降りて、北側から回り込んで橋をくぐってみます。
見上げてみると、桁の構造もいたってシンプル。
ですが、この橋が関東大震災と東京大空襲に生き残った凄みを感じずにはおれません。
行政でも私と同じように感じているのか、はたまたこの橋を観光資源にする野望によるのか、説明版があちこちと合計5枚!すごい力の入れようです。
この橋を少し離れて眺めていると、そこに若い女性がやってきました。
なんと、最初に登場した「ねこちゃん橋」の女性ではありませんか!
女性の足元には一歳ぐらいの男の子がとことこと歩いています。
そして橋の下をゆっくりとのぞきもむ男の子、次にお母さんの方に振り返って悲しそうな顔。
指さしてしきりに何かを訴えています。
「そうね、今日は寒いからねこちゃんたち、おうちだね。また明日こようね」なんと、ねこちゃん橋とは、この八幡橋のことだったのです。
今度は橋近くに咲く花が気になったのか、ゆっくりとしゃがみながら、満面の笑顔で母の方を振り向く男の子の姿を見ながら、私の娘が小さかった頃を思い出さずにはおれませんでした。
歩き始めたばかりの娘は、全身水色のロンパースを着て、とことこと隅田川テラスを歩いたものでした。
彼女が必死で指さす方には、両国橋があったり、遊覧船があったり、カモメが飛んでいたり。
目に入るものすべてが新鮮で、楽しくて仕方がない娘の様子に、まるでぬいぐるみのような姿と相俟って、かわいさと父である幸福をかみしめたのを思い出します。
今でも妙に懐かしく、大切な宝物として胸にしまっている記憶です。
そうか、あの親子にとっては「ねこちゃん橋」が大切な思い出の一部となるのだなあ、と感慨にふけるのでした。
そうこうしているうちに、今度は老夫婦が橋を渡り始めました。
おばあさんがおじいさんの手を引き、ゆっくりと、一歩一歩を確かめるように歩いています。
さらに女性が一人、大きなカバンを持って渡っています。
橋のまん中あたりで立ち止まり、しばらく橋から下を眺めた後、なにか気合でも入れるようなそぶりをして、足早に渡っていきました。
さっきの親子が、今度は男の子がベビーカーに乗って、ねこちゃん橋に手を振ってお別れしています。
「じゃあ、また明日会おうね!」
そうです、ねこちゃん橋はみんなの生活にすっかり溶け込んで、その一部となっているのです!
みんながこの橋を愛し、共に暮らす。そんな時間がこの橋には詰まっていると感じました。
「橋が町を作り、人が橋を活かす」
震災復興の本で見たフレーズが頭をよぎります。
きっとこの橋は人々の暮らしに寄り添って、人々の思いを受け止める包容力あるのだ、だから様々な苦難を乗り越えることができるに違いない…。
そんなことを思いながら、夕暮れの橋を後にしたのでした。
撮影のために後日、橋を再訪したら、あのねこちゃんに出会えました!
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました(順不同敬称略)。また、文中では敬称を略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課
次回は鎧橋です。
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