前回では千鳥橋の歴史をたどってきました。
度重なる火災を経てもなお、この橋に大きな試練が訪れます。
大正12年(1923)東京の街に関東大震災が襲来したのです。
下町の多くが劫火にのまれて壊滅的被害を受け、千鳥橋周辺も再び一面が焼け野原となる甚大な被害を受けたのでした。
しかし、千鳥橋は焼失を免れて工事費1698.080円を投じて修理・拡張されて使用されることになりました。
「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)を見ると、その惨状がうかがえます。
その後、帝都復興事業で橋梁改築事業として東京市が新しい橋に架け替えることになります。
着工は昭和2年(1927)11月、竣工は昭和3年(1928)7月で橋長14.7m、幅員11.0mの鋼桁(上路)が架けられました。
建築費が28,942円、単価179円と割安なうえに、工事日数が266日と短いこと、橋梁改築事業となっている事を考えると、橋台などについて前の橋のものを部分的に再利用したのかもしれません。
この橋は『中央区近代橋梁調査報告書』によると、「単純な桁橋で、目立った装飾はみられないが、細かなところにデザイン的な工夫がみられる。床板を耳桁より張り出させることは、復興橋梁の一般的な手法であるが、プラケットに凹の曲線を入れて斜め方向からの眺望をすっきりさせ、カバープレートは台形型である。耳桁中央に二つの橋側灯に挟まれた橋名版がある。」橋です。
この橋のイメージを描いてみたのが次の図です。
また、「4ヶ所全てに橋詰広場が設けられ、右岸上流側は植栽と郵便ポスト、右岸下流側は植栽地があった。」そうで、コンパクトですが整った橋だったようです。
昭和11年撮影の空中写真を見ると、関東大震災から復興した町の様子を見てみましょう。
すると、千鳥橋周辺には黒っぽく見える多くの低層建物にまじって、白く見えるビルの姿もそこここに確認できると思います。
こうしたことから、街がにぎわっている様子がうかがい知ることが出来ました。
こうして関東大震災の復興事業で新しい橋に生まれ変わった千鳥橋ですが、その後わずか17年で、またもや大きな試練が襲います。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けてしまいます。
この橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。
「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)には、現在の中央区と墨田区・江東区一帯の被災状況が記録されています。
写真の過半を横切るのが浜町川で、中央が久松小学校、左下角に写っているのが千鳥橋です。
写真で見る限り、千鳥橋は落橋を免れて何とか機能しているようです。
驚くべきことに、この橋はなんと空襲の劫火にも耐え抜いたのです!
一部損傷はあったであろうと想像できますが、今度は戦災からの復興に役立つはずでした。
しかし、ここで新たな問題に直面します。
それは空襲によって発生した膨大な灰燼の処分という難問で、戦後復興を阻む深刻な状況を生みます。
『中央区史 下巻』によると、「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態です。
たしかに、昭和22年撮影の空中写真を見ると、街の半ば以上が空地のままで、戦災復興も道半ば、といった感じです。
そこでこの問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となったのです。
こうして浜町川の埋めたてとともに昭和23年から千鳥橋の撤去が始まり、翌昭和24年には灰燼による浜町川の埋め立て開始、昭和25年に終了しました。
こうして千鳥橋は浜町川と共に消滅したのです。
昭和32年撮影の空中写真を見ると、浜町川は埋め立てにより消滅してわずかに地割にその痕跡が残るのみ、千鳥橋は跡形もありません。
そして現在、千鳥橋のあった交差点を歩いても、橋の痕跡は全く確認できませんでした。
しかし、かつての浜町川の痕跡は、細長い街区となって残っています。
そしてその中央付近を細長い歩行者専用道が走っているのですが、少し歩くと東京都下水道局の看板が目に入ってきました。
そうです、浜町川跡の一部は下水道用地となって現在は下水管が通っているのです。
ビルに挟まれた細長い空間は、周囲から隔絶された異世界を感じさせる独特の空間。
かつては浜町川の跡に沿って歓楽街となっていたようで、現在でも千鳥橋付近ではその雰囲気が少し残っています。
また、かつての橋の東北に銀行を思わせる立派な建物が目につきます。
これは東京アフロディテという結婚式場になっているのですが、かつての「古河銀行元浜町支店」(中村與資平設計、大正15年(1926)竣工)とのことです【Webサイト「ぼくの近代建築コレクション」による】。
残念ながら、ここでの結婚式に参加しないと内部を見ることはできません。
ビアガーデンが開設される年があったり、パーティーもできるそうですので、興味のある方は問い合わせしてみてください。
ここまで千鳥橋の歴史をたどってきました。
次回ではいよいよ冒頭で見た大火でこの橋と清親に訪れた運命を見てみたいと思います。
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