ここに一枚の絵があります。
画面左に掘割があって、遠くに橋が見えます。
その背後には不気味な赤黒い炎とすさまじい黒煙。
よく見ると、手前の暗がりにはたくさんの人が押し合いへし合いして大混乱。
避難する人達なのでしょうか、皆うつむき加減で沈み込んでしまいそうな雰囲気です。
小さく消防らしき人々が懸命に作業する姿も見えますが、炎の勢いは人の手に負えそうもないくらい不気味で巨大です。
この絵はどちらも小林清親(1847~1915)の「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」です。
不気味な大火と逃げ惑う群衆が光と色を見事に駆使してコントラストも鮮やかに描かれています。
刷り段階で、出火当初を現したものと大火が最盛の頃と、色合いを変えることで二種類の作品に仕上げていますが、どちらも気味悪いくらい恐ろしい光景。
そして何より、阪神大震災を経験した私には、大火独特の音や臭い、そして激しい熱と吹きすさぶ風すらも感じるすさまじい作品なのです。
この絵は美術史において、災害を誇張せず客観的に捉えたうえに対比をうまく使って臨場感を生み出すことに成功した作品として、また静かな画面の中に災害の底知れぬ恐怖を描いた作品として高く評価されているのもうなずけるところ。
ところで、この作品の中に、掘割に架かる一本の橋がシルエットで描かれているのが見て取れるでしょうか?
この火災現場にかなり近いこの木橋には、逃げ惑う人影までもが描かれているのです。
今にも燃えてしまいそうなこの橋、この後一体どうなったのでしょうか?
この作品は、当時の日本橋区久松町の栄橋付近から浜町川上流の北方向を見た構図になっていますので、描かれている橋が千鳥橋だと考えてよいでしょう。
そこで、千鳥橋の歴史をたどってみましょう。
千鳥橋(ちどりばし)は東京都中央区東日本橋三3丁目と日本橋富沢町を結んで旧浜町川に架した橋でした。隣の橋は、上流側(北側)は汐見橋、下流側(南側)が問屋橋です。
浜町川は江戸時代の初期、寛永(1624~43)の頃に開削されたとみられ、最古の江戸絵図である「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)にも描かれています。
この絵図を見ると、河口部(川口橋)と堀留近くに一本の橋が描かれているのがわかります。
絵図の情報が限られていることもあって、この橋がいずれの橋に該当するのかの判断はわかれています。
具体的には、後者を栄橋とみる見解(『東京の橋』など)が多数ですが、千鳥橋とする意見(『中央区史』)や汐見橋とする意見(『中央区の橋・橋詰広場』)もあります。
いずれにせよ、府内沿革図書元禄年中之形には、橘一丁目から西に新大坂町に渡る橋として千鳥橋の記載があることから、浜町川が延伸掘削された元禄4年(1691)には、この橋が架設されていたと考えられます。
絵図を見ると、「千鳥橋」の名が記されているのは、「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年)があり、続いて『明治東京全図』(明治9年)にも描かれています。
その後、「明治十五年府統計」には、千鳥橋が「富沢町ヨリ橘町一丁目へ渡ル」木橋で、橋の規模は長さ6間、幅4間、明治10年(1878)4月に竣工、工事費は427円であると記されています。
また、『日本橋区史』所載の大正四年十二月調査によると、そのわずか5年後の明治15年(1883)11月には工事費585.55円で長さ5間5尺・幅4間の木橋が架設されました。
この短期間での架け換え、冒頭でみた火事との関係が気になる所です。
そこで、次回はこの橋の歴史をさらにたどっていきましょう。
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