名作誕生 千鳥橋(ちどりばし)編 ③

前回の千鳥橋の歴史から、話を冒頭の大火に戻しましょう。

「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「明治十四年二月十一日大火」(「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】

小林清親が描いた「明治十四年二月十一日大火」(「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」『清親画帖』)について、東京消防庁消防博物館Webサイトには、

「神田小柳町から出火、東神田から日本橋区へと燃え移り、7,751戸を焼失しました。この火事には、警視総監(当時)が出場し、消防隊、消防組の総指揮にあたりました」とこの絵と共に紹介されています。

当時の清親は、火災現場にほど近い日本橋区米沢町(現在の東日本橋1丁目)に住んでいました。

「最後の浮世絵師」と呼ばれる清親ですから、江戸時代から多くの絵師が描いてきた災害という画題にも制作意欲をかきたてるものがあったのでしょう、火事と聞いて町へと写生に飛び出したに違いありません。

じつは、この火事の前にも清親は火事の現場に赴いて写生した作品を残しました。

「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」と「濱町より写両国大火 明治十四年一月二十六日大火」(いずれも『清親画帖』小林清親1878)の二点です。

「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】
「濱町より写両国大火 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「濱町より写両国大火 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】

この絵の題材となった「明治十四年一月二十六日大火」とは、「松枝町大火」と呼ばれるものです。

『中央区年表 明治文化編』によると、神田松枝町での放火により出火、火は折からの乾燥しきった町に瞬く間に広がって、一部は隅田川さえも越えて広がりったのでした。

この猛火は16時間ものあいだ延焼し、神田区21ヶ町、日本橋区27ヶ町、本所区50ヶ町、深川区10ヶ町の合わせて四区108ヶ町1万数千戸を焼き尽くしたのです。

この「松枝町大火」を描いた二枚の作品は、火災のすさまじさを伝えていますが、やや遠望した光景となっていますので、緊迫感に若干欠けるきらいがあります。

その点は清親本人も思うところがあったでようで、そのわずか半月後の火事では、危険を顧みずより火災現場に近づいて描くことによって強烈な臨場感と緊迫感を得ることができたのです。

そして、度重なる火事で千鳥橋も大きな損傷を負って、短期間での架け換えを余儀なくされたのです。

こうして清親の尋常ではない探究と、橋や町の犠牲の結果、ここに名作が誕生しました。

ところが、です。

疲れ切って清親が火事の写生から帰った時には米沢町の自宅は焼けてなくなっていました。

さらに悪いことには、普段から画業に没頭するあまり家庭を顧みることがなかった彼に愛想をつかして、妻が子を連れて実家に帰り、そのまま離婚となってしまいます。

災害の時こそ家族の団結が必要なのは、私も阪神淡路大震災で痛感しました。

そんな時に妻と幼子をほっぽって火事場に向かう清親ってどうなのか、と思いませんか?

しかし彼は画家として得難いなにかを習得したようで、その後の作品、なかでも戦争画に大いに生かされることになります。

「両国焼跡 明治十四年一月十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「両国焼跡 明治十四年一月十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】

とはいえ、この大火で清親が失ったものはあまりにも大きかったのは事実だったです。

彼の心には虚脱感や寂寥観があったにちがいないと私は推察しています。

その証拠に、彼の描いた四部作の最後を飾る一枚、「両国焼跡 明治十四年一月十六日大火」(『清親画帖』)にはそうした思いがあふれているように思えてならないのです。

しかし、実際作品に仕上げた順番は分かりませんので、案外清親は目の前の風景を、さらにはその奥にあるものを冷徹に見切っていたのかもしれません。

これこそが彼が得たものだったのではないかと思うとき、私は清親の眼差しにすさまじい覚悟と達観を感じて、畏怖の念を抱かずにはいられないのでした。

まさに彼こそが「最後の浮世絵師」と呼ばれるにふさわしい絵師であり、その彼の画業に千鳥橋や神田の大火が大きな影響を与えているのです。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。

引用文献等:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、

『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、

『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、

『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、

『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、

『中央区年表 明治文化編』(東京都中央区役所、1958)、

石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、

『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、

『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)、

Webサイト「ぼくの近代建築コレクション」、東京消防庁消防博物館Webサイト

参考文献:伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、

鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、

大久保純一「幕末・明治の出版物に見る災害表象」『国立歴史民俗博物館研究報告 第203集』(国立歴史民俗博物館、2016)、

本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)

次回は問屋橋です。

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