謎の巨大橋 誕生前史 大和橋(やまとばし)(浜町川)①

靖国通りの大和橋交差点は なんとも不思議な交差点です。

靖国通りを東に、JR山手線のガードと首都高1号上野線の高架道路をくぐって150mほど千葉方面に行くと、今回取り上げる大和橋の交差点に到着します。

ここは、靖国通りと神田駅からのびる神田平成通りの合流する三差路にあたっていて、大変交通量の多い場所。

この大和橋の交差点を少し遠くから見てみると、交差点のあたりだけが丸く盛り上がっているのが分かるでしょうか?

この高まりは、目測で長さは約15m、幅は約65mの規模で帯状に横にのびて、2つの大通りが合流する部分の幅いっぱいに広がっているのです。

交差点の名称からみて、この高まりが大和橋なのでしょうか?

だとすれば、この幅は驚異的です。

橋の幅だけに注目すると、震災復興橋で重要文化財の永代橋と清洲橋が22m、神田川に架かる萬世橋が36m、幅が広いことで知られる江戸橋が44m、明治44年竣工の重要文化財・日本橋が49m、道路鉄道併用橋で世界一長い瀬戸大橋がケーブル幅で35m、単独橋で世界最長の明石海峡大橋で36m、長らく世界一広い橋として君臨していたオーストラリアのシドニー ハーバーブリッジ(1932年開通)が幅48.8mです。

大和橋推定範囲の地図画像。
【大和橋推定範囲(住所案内板に加筆)】

繰り返しますが、大和橋らしきものは、長さは15mほどですが、幅は約65mあります。

大和橋近くの住所案内板に高まりの範囲を重ねてみると、図のようになります。

さらに不思議なのは、交差点に残る帯状の高まりが橋だとしたら、現在は川が見当たりません。

ではいったい、この高まりは何なのでしょうか?

この謎を解くために、交差点の名称になっている大和橋について調べてみたいと思います。

    ☆        ☆       ☆

橋があるということは、川があったはずです。

まずは手始めに、かつてこの場所にあった川を探してみましょう。

鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)を手に取るとあっさり答えを教えてくれました。

この本によると、かつてこの場所を浜町堀(浜町川)が流れていたとの記載が!

そこで、以下では前書の内容を要約して記します。

浜町川は日本橋川から分かれた箱崎川と神田川を結んでいた堀川で、総延長1.8㎞でした。

浜町川と龍閑川の流路の地図画像。
【浜町川と龍閑川の推定位置(住所案内板掲載地図に加筆)】

その歴史は、元和年間(1615~23)に箱崎川から現在の人形町2丁目まで開削されたことに始まります。

その後、元禄4年(1691)に龍閑川開削に伴って利便性を得るため小伝馬町まで延長されて、龍閑川と合流するようになりました。

大和橋近くの案内板掲載の地図に、浜町川と龍閑川の流路を重ねると図のようになります。(赤○部分が大和橋)

しかし安政4年(1883)に龍閑川が埋め立てられると、浜町川は再び小伝馬町で行き止まりとなってしまいました。

現在、大和橋交差点の北側及び南側に、ちょっと薄いビルが建っている部分がかつての浜町川です。

その後、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)によると、明治23年(1890)の東北本線秋葉原貨物駅(現在のJR秋葉原駅)開業に向けて、これと結ぶために明治16年(1883)に浜町川が神田川までの約300mが開削されます。

この時、新しく開削された浜町川に3つの橋(神田川から柳原橋、大和橋、岩井橋)が架けられたのですが、そのうちの一本が大和橋なのです。

この橋は、『新撰東京名所図会』によると神田区東龍閑町と豊島町を渡す木橋でした。

「神田区之部」(『携帯番地入東京区分地図:附東京郡部地図』伊藤正之助(新美社、1909)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「神田区之部」『携帯番地入東京区分地図:附東京郡部地図』伊藤正之助(新美社、1909)国立国会図書館デジタルコレクション)〔部分〕】

文献には記されていませんが、大和橋の名は、江戸時代に橋の西側にあった大和町(現在の岩本町二丁目)の名に由来するようです。

ちなみに、この時に日本橋川からのびる龍閑川が小伝馬町まで再掘削されていますので、浜町川や龍閑川と神田川を通行する船の多くが大和橋を通るようになりました。

この頃の大和橋を地図(「神田区之部」『携帯番地入東京区分地図:附東京郡部地図』)で見ると、周囲の橋と比べても特段目立つところは見当たりません。

ここまで大和橋と、この橋が架かる浜町川の歴史を見てきました。

次回からは大和橋がたどる数奇な歴史を見ていきたいと思います。

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