力尽きた橋 弁天橋(べんてんばし)①

この連載をはじめたころ、橋供養で名高い新田橋を見に行った時のことです。

早くも咲きはじめたツツジに反射する日差しが、目に眩しく感じる初夏を思わせる陽気の中、新田橋(写真の赤い橋)の袂に自転車を止めた私は、ふと思い立って踵を返し、洲崎神社(写真の赤い鳥居)に参ることにしました。

そのままふらふらと参道から外れて神社を通り過ぎて、小さな流れに架かる古びた橋に引き寄せられて行きました。

弁天橋の画像。

その橋はシンプルこの上ない構造のプレート・ガーダー橋で、下路式のため桁をそのまま高欄に使った実用一点張りの橋です。

現在は橋名板もなく、塗装はあちこちハゲ落ちるといったすさまじい荒れよう。

桁に張られたトラロープには、「手につくから塗装に触らないで!」と、まるでこの橋が汚らしいもののように扱っているように思えて、心が痛む光景です。

よくみると、トラロープはリベットを外してその穴に通しているではありませんか!

弁天橋の南側高欄の画像。

永代通りから一本入った道筋なので、人通も車も結構通るものの、この橋の荒れようには一向に関心がない様子です。

私はこの橋を見て、なんだか燃え尽きて倒れたサラリーマンを思わせる哀愁を帯びた姿に、得体の知れぬ感動すら覚えました。

たまたま通りかかった測量師に聞いてみると、この橋の名は弁天橋、近く架替のため取り壊されるとのこと。

橋の形式や雰囲気からして震災復興橋と思われる弁天橋、私はこの燃え尽きた橋がどういう歴史をたどったのかをどうしても見てみたくなりました。

そこで今度は、弁天橋を通り越して橋の東側を少し歩くと、この橋の辺りがちょっと不思議な地形になってるではりませんか。

橋のすぐ皆に側に堀川を埋め立てた公園があって、今ある二つの流れともう一つで、橋の周りは掘割でぐるりと囲まれる形になっているのです。

ここで整理がてら具体的に、磯村政富「新式商業地図 深川区」(大正3年 東京書院 国立国会図書館デジタルコレクションに加筆)を使って見ていきましょう。

磯村政富「新式商業地図 深川区」(大正3年 東京書院 国立国会図書館デジタルコレクション)に加筆した画像
【「新式商業地図 深川区」磯村政富(東京書院、大正3年 東京書院)、国立国会図書館デジタルコレクションに加筆)】

北から流れてきた大横川が西に逆L字に曲がるところで少しくランクして大横川南支川が分岐、ここに弁天橋が架かっています(赤○部分)。

洲崎緑道公園の画像。

大横川南支川はそのまま直線で東京湾に向かうのですが、弁天橋の東袂から東に現在は公園(洲崎緑道公園・写真)となった堀川が分岐して東に流れているのです。

なにせ周りは掘川だらけ、何とも不思議な地形ではありませんか!

次回では、この不思議な地形はどのようにして誕生したか、まずはそこから探っていきましょう。

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