前回、偶然出会ったボロボロな橋・弁天橋、まずは現在のこの橋について見てみましょう。
弁天橋は木場六丁目~東陽三丁目間を結んで大横川南支川に架けられています。
橋長は 23.2m、幅9m(全幅員10.1m)の単径間鋼製ガーダー橋(プレート・ガーダー橋)で、設計荷重は12t、昭和7年3月竣工の震災復興橋です。
実用一点張りでデザイン性が乏しい、鋼橋としてはもっとも簡易な形態の橋といえます。
この場所に橋が架けられたのは新しいようで、この場所に江戸時代の絵図や絵画資料には橋が描かれていません。
歌川広重「洲崎雪之初日」を見ても、橋はおろか陸地さえ見られないではありませんか! そして現在弁天橋があるあたりは、海として描かれています。
それでは、改めて江戸時代までのこの場所を見てみましょう。
この地域で最も古い場所が、橋の西に立つ洲崎神社です。
社伝によると、元禄13年(1700)に本所深川の埋め立て事業が進んで誕生した島状の陸地に、江戸城中紅葉山にあった弘法大師作と伝えられる桂昌院(五代将軍綱吉の生母)の守り本尊を祀り、洲崎弁天社と称したことにはじまる、とされています。
この時の埋め立てをはじめ、この辺りでは次々と埋め立て事業が進められていきます。
とくに規模の大きなものが深川百万坪です。
歌川広重「江戸名所百景 深川洲崎十万坪」(安政4年)で有名な深川百万坪とは洲崎神社の東北側一帯の広大な場所を指す呼び名でした。
ここは享保8年(1723)に千田庄兵衛が新田開発を上願して開発され、成功した部分は千田新田と呼ばれますが、当時は人気のない寂しいところだったようです。
こうした中、寛政3年(1791)には洲崎一帯を台風による高潮が襲い、多くの家屋が流出、多数の死者が出る大惨事が発生してしまいました。
そこで、幕府は開発を断念して洲崎一帯に家屋の建築を禁じるとともに、津波警告の碑を建てたのですが、この碑が現在も洲崎神社境内に残っています。
今時点では深川十万坪の開発も進まず、洲崎神社より東と南には遠浅の海が広がるばかり、弁天橋の架かる大横川南支川もまだ開削されていません。
一方で幕府は仙台堀川などの河川を整備、その一環として洲崎付近の湿地帯を均しました。
この結果、川沿いの湿地帯は汽水域となったので、水路と畦を整備して養魚場が次々と造られ、大いに発達します。
この養魚業は、昭和の時代まで、地域の重要な産業の一つとなっていました。
その一方で、海側には広大な干潟が広がっていました。
海岸の埋め立てが進む江戸近くでは珍しくなった干潟は、潮干狩りの名所として発展していきます。
これに加えて、江戸後期になると、「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」(『深川区史』)として発展して、料亭などが建ち並び、名高き辰巳芸者の活躍の場ともなりました。
とりわけ、東にさえぎるもののない地勢から、初日の出の名所として広く江戸中に知られることとなったのです。
こうして、北には筑波山、西南には富士山をはるかに望む絶景は大いに人気を集め、洲崎は初日の出と汐干狩の名所として、江戸有数の観光地になりました。
このように、「海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引く」【洲崎神社社伝】という風光明媚な景勝地で、「浮弁天」と呼ばれた洲崎弁天が海中の島に祀られる江戸を代表する名所となったのです。
洲崎弁天社が神仏分離で洲崎神社と改称された明治時代のはじめも状況は変わらず、行楽地として人気を博していました。
昇斎一景「東京名所四十八景 二十六 洲崎の汐干」(明治4年頃)をみても、江戸時代から変わらぬ、楽しい汐干狩の様子を伝えてくれます。
この平和そのものの状況が一変、これまでのどかな行楽地だったこの場所に、突然巨大な遊郭が出現したのです。
次回ではこの変化についてみてみましょう。
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