前回まで弁天橋の歴史を探ってきました。今回は橋の隣にできた洲崎遊郭を探ってみましょう。
1887年(明治20年)までに富坂(現・文京区本郷)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、その裏口にあたる場所にあった根津の遊郭が移転させられることになります。
確かに国の威信をかけた大学の裏口が遊郭では、いかにも具合が悪いですね。
しかし、吉原がキャパシティの問題から断るなど、移転の候補地探しは難航します。
結局、用地を新しく埋め立てて造ることになりました。
そこで白羽の矢を立てられたのが東京の中心部に近く、遠浅の海が広がる洲崎だったのです。
江戸時代から風光明媚な観光名所で少なからず芸者さんと縁があったのも要因かもしれません。
こうして明治21年(1887)には洲崎神社の東側の海上に、約6万坪の巨大な四角い埋め立て地が造られて、ここに遊郭が移されました。
ここに名高き洲崎弁天町こと「洲崎遊郭」が誕生したのです。
その頃の様子は「明治21年洲崎遊郭鳥観図」(『深川区史』 )で見ることができます。
この絵図に描かれているのは遊郭の西半分で、画面の右下には遊郭の正面に造られた洲崎橋が見えます。
残念ながら、弁天橋付近は画面の外で確認できません。
その頃、洲崎遊郭の南と東西は海でしたが、北は陸続きでした。
そこで新吉原にならって堀川を造って、境界にしたのです。
それが洲崎川で、現在の洲崎緑道公園にあたります。
ここにきて弁天橋は洲崎神社と洲崎遊郭をつなぐ橋としてにわかに重要となりました。
明治26年(1893)に大火があったのをはじめ、洲崎遊郭は次々と災害に見舞われます。
例えば、たびたび高潮に襲われて、新吉原にならって正面入り口に造られた大門は崩壊、その後再建されることはありませんでした。
その後も 度重なる災害にもめげず、大正時代末期には300件前後の遊郭がひしめくまでに発展、ついに吉原と双璧をなす規模の大歓楽街に発展します。
洲崎遊郭の様子は、海に浮かぶ歓楽街、まさに不夜城でした。
瀬川光行編『日本之名勝』(明治33年 史伝編纂所 国立国会図書館デジタルコレクション)所収の 「洲崎遊郭遠望」を見ると、その頃の雰囲気がよくわかります。
また、遊郭の中の様子は「東京名所 洲崎遊郭」『洲崎の栞』に描かれるように、新吉原にならって植えられた桜並木、紅灯の列に尖塔がそびえて、まさに別世界さながらです。
この不夜城について、東京市深川区編『深川区勢比較要覧 大正元年至四年』(大正5年)でその様子を見てみましょう。
大正四年には洲崎遊郭は貸座敷156、引手茶屋26、芸妓屋28、芸妓29人、娼妓1,925人を数えるまでになっています。
同年の営業高は1,192,953円で、これは同年の深川区歳入259,835円の四倍近い額で、その繁栄ぶりの一端がうかがえます。
こうした中、東京市の膨張によって、洲崎遊郭の周囲も埋め立てが進みます。
東京郵便電信局『東京市深川区全図 明治三十年十一月調査』(1898年 国立国会図書館デジタルコレクション)【部分に加筆】を見ると、遊郭の東側が埋め立てられているのがわかります。
埋立地を含め、周りは養魚地だらけ、遊郭のほかはなにもない状態は変わっていません。
そして、この地図には赤丸で囲ったように弁天橋がはっきりと描かれています。
ただし、弁天橋は大横川から分かれた洲崎川に架かる状態になっているのに注目してください。
また この時の橋が、『東京市復興事業概要』(東京市復興事業局編(東京市復興事業局、大正15年)の「復旧橋梁一覧表」に記載されている長さ9間、幅4間の木橋(関東大震災で被災)だと思われます。
これが次に、柴洋之介製『チェートス社東京全図 深川区分図』(大正9年チェートス社 国立国会図書館デジタルコレクション)【部分に加筆】を見ると、遊郭の西側も全面的に埋め立てが行われているのがわかります。
ここで初めて大横川南支川が誕生して埋立地と遊郭を隔てる堀のようになりました。田
や住宅が増えたとはいえ、まだまだ遊郭のほか何もない状態が続いています。
繁栄を極めた洲崎遊郭は、関東大震災で壊滅的被害を受け、一面が焼け野原となってしまいます。
多くの犠牲者を出したものの復興も早く、わずか数年で復興して人々を大いに驚かせました。
こうして繁栄の絶頂を極めた洲崎遊郭ですが、その命運は突然潰えることになります。
次回は洲崎遊郭の終焉を見てみたいと思います。
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