前回見たように谷崎潤一郎の狸話から始まった扇橋のお話しですが、現在の橋自体にはあまり特徴がないようです。
それでは、今回は視点を変えて、この橋の歴史から魅力を探っていきたいと思います。
この橋が架かっている大横川は、万治二年(1659)徳山五兵衛重政、山崎四郎左衛門重政の本所奉行によって、本所深川の埋立を行ったときに合わせて開削されました。
ちなみに、江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられたといわれ、これと直角に交わるのが堅川(たてかわ)です。
どうやら大横川が開削された当時は、まだ扇橋はなかったようです。
(画像は新扇橋の案内板にあった江戸後期の地図です。画面左下に大横川と小名木川が十字に交差している場所が描かれ、扇橋の名が見えます。)
扇橋の創架年月ははっきりとは分かりませんが、享保6年(1721)の『深川橋橋見聞帳』に官設の橋として登場するのが、最も古い記録。
それによると、扇橋は扇橋町西東に架かっている橋で、長さが長二十間、幅三間の桁に板を使った橋で、橋台に石垣が築かれていました。
また『府内備考』の深川扇橋町の条によると、扇橋は長十八間、幅二間で、扇橋町内の北の方に、亥ノ堀川(現在の大横川)を渡す板橋で、創架年月や橋名の由来は分からない、とあります。
これらの文献から、この橋は享保以前の架設と地域では比較的古い橋で、江戸時代から小名木川の南を並走する道を大横川上に渡してたことがわかります。
町の名にもなるほどランドマーク的な橋であることは、伊能図にもその名が記されていることからもわかります。
また、猿江橋の案内板にあった明治初めの地図【部分】を見ると、画面中央部に大横川(水色の川)と緑の小名木川が合流する部分があり、橋名は記載されていませんが、橋の存在が記されています。
この地図で、今よりもだいぶん橋が少ない点に注目してください。
そんな中で三つの橋が近接する光景は、かなり目を引いたに違いありません。
また、『深川区史 上巻』深川区史編纂会編(深川区史編纂会、1926)には、「猿江の三橋」のことが記載されています。
これによると、「小名木川と大横川の交叉する所に新高橋、猿江橋、扇橋の三橋が凹字形に架けられてゐるのを仮りに『猿江の三橋』と呼ぶ。」とあります。
続けて、「かうした處は水系の豊かな深川には珍しいことではない」とも言っています。
これはもう新観光名所にするつもり間違いなし、ですね。
ちなみに、この時の扇橋は木造で、長十八間、幅二間で扇橋町1丁目より東扇橋町へ大横川の上を渡しています。
明治十三年五月に799.14円かけて架換られました。
同じく、猿江橋と新高橋も木造橋でしたので、三つの木橋が見える光景はかなり見ごたえがあったと思われます。
現在でも同じ大横川を北に架かる猿江橋を望む景色は、静かな水面に空が移って中々美しいものです。
ちょっと写りが悪いのですが、この頃扇橋の上から猿江橋と新高橋を撮影したものが前述の『深川区史』に掲載されています。
大きな波の立たない堀川ですので、水面に映える三橋は一服の絵画を思わせる美しさだったと想像できませんか?
筏や舟が通るのも、深川らしい風情があったのではないでしょうか。
ここまで見てきたように、風情のあった扇橋ですが、その後次々と災害が襲いかかってきます。
次回は扇橋の受難の時代を見てみたいと思います。
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