えらくかわいい橋の図面を偶然見つけました。
関東大震災の復興事業で造られた橋ですので、大正時代末から昭和初期のころの建築物でしょうか。
『本邦道路橋輯覧』(内務省土木試験場)に載っていたのがこの図面で、右半分が外観で、左半分が構造を現す図になっています。
橋脚の曲線など橋全体から受ける柔らかい印象は、前に和倉橋で見たところの、この時代に流行していた表現主義の香りが感じられるように思います。
しかし、この橋最大の特徴は、なんといっても橋の側面、床板の下に大胆に配されたデンティル装飾(縁に帯状の装飾をつける、ギリシャのコリント・イオニア式建築でよくみられるスタイルです。写真の赤い四角部分。建物はハリオグラス本館)。
これが建物のアクセントになっていて、とってもキュートでチャーミングだと思いませんか?
このデンティルと欄干が独特のリズムを作り出していて、なんだか小気味よい印象を受けます。
ひょっとしてこれは先にみた表現主義ではなく、新古典主義の影響を受けた橋なのでしょうか?
いずれにせよ、時代を先取りしたハイセンスセンス、高いデザイン性は まさに昭和モダニズムのさきがけといった感じです。
このかわいい橋の名は、浜洲橋、かつて浜町川に架かっていた橋の一つです。
写真は『本邦道路橋輯覧』に掲載されている浜洲橋の図です。
なんだか橋全体にデザイン的配慮がいきわたっているように見えてきませんか?
今回は、この素晴らしいデザインの橋について、ちょっと調べてみましょう。
この橋が架かっていた浜町川は、日本橋川から分かれた箱崎川と神田川を結んでいた総延長1.8㎞の堀川(人工河川)でした。
その歴史は、元和年間(1615~23)に箱崎川から現在の人形町2丁目まで開削されたことに始まります。
その後、元禄4年(1691)に神田堀(のちの龍閑川)開削に伴って、これと接続するため小伝馬町まで延長されたことで、龍閑川と合流するようになりました。
しかし安政4年(1883)に龍閑川が埋め立てられると、浜町川は再び小伝馬町で行き止まりとなってしまいます。
どうやら水量不足で水運に支障があったのが原因だったようです。
この時の浜洲橋付近(赤○部分)を「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年)で見ると、橋がないのが分かります。
時代は下って、明治23年(1890)の東北本線秋葉原貨物駅(現在のJR秋葉原駅)開業に向けて、神田川と結ぶために明治16年(1883)に浜町川が神田川までの約300mが開削されます。
またこの時、龍閑川(かつての神田堀)も再掘削されて、竹森橋近くで合流するようにつくり変えられました。
このように長い歴史を誇った浜町川にあって最後に架けられたのが今回取り上げる浜洲橋です。
ところで、この橋が誕生したのは、東京の姿を一変させる大事件があったからです。
その事件とは、大正12年(1923)の関東大震災。
この時、下町の多くが劫火にのまれて壊滅し、浜洲橋周辺も一面が焼け野原となってしまいました。
そして震災からの復興事業で、この場所にはじめて橋が架けられることになったのです。
ではなぜ、このタイミングでの創架となったのでしょうか?
次回は浜洲橋誕生の背景を探ってみたいと思います。
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