今に残る橋の記憶 緑橋(みどりばし)編 ③

前回見たように、緑橋とその周辺は関東大震災からようやく復興してきました。

しかし、この橋が架け替えられてわずか16年後に、再び大きな試練が訪れます。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けてしまいました。

「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981 国立国会図書館デジタルコレクション)】

「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』)は緑橋のすぐ下流側、画面左下が日本下流側の千鳥橋です。

緑橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。そんな中でも この橋はなんとか空襲の劫火にも耐え抜いて、今度は戦災からの復興に役立つはずでした。

昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M377-681947・7・24【緑橋部分】)に画像。
【昭和22年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M377-681947・7・24〔緑橋部分〕)】

しかし、ここで新たな問題に直面します。それは空襲によって発生した膨大な灰燼の処分という難問でした。この問題が戦後復興を阻む深刻な状況を生みます。昭和22年撮影の空中写真を見ると、画面中央の白く見える焼け残った緑橋とともに、たくさんの空き地とが確認できます。

『中央区史 下巻』によると、「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態です。

そこでこの問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となったのです。

こうして浜町川の埋めたてとともに昭和23年から緑橋の撤去が始まります。

翌昭和24年には灰燼による浜町川の埋め立てが始まり、昭和25年に終了しました。

昭和38年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C8-23(1963・6・26)【緑橋部分に加筆】)の画像。
【昭和38年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C8-23(1963・6・26)〔緑橋部分に加筆〕)】

昭和38年撮影の空中写真を見ると、緑橋(赤○部分)の痕跡は全く見られません。

緑橋は浜町川と共に消滅したのです。

旧緑橋交番の画像。

現在、緑橋のあった交差点を歩いても、橋の痕跡は全く残っていません。

しかし、かつての浜町川の痕跡は細長い街区となって残っています。

そして何よりうれしいことに、橋の袂にあった交番がほとんど建設当時のままで残っています。

この交番については後程触れるとして、橋の跡の探索を続けましょう。

緑橋の跡付近をよく見ると、浜町川の痕跡をとどめる街区が二つ並び、その真ん中を細長い歩行者専用道が走っています。この細道は何なのでしょうか?

そこで少し歩くと、東京都下水道局の看板が目に入ってきます。

そして現在、浜町川跡の一部は下水管が通る下水道用地となっていました。

かつての浜町川が下水道に転用されているのって、ちょっと寂しいような気がします。

このビルに挟まれた細長い空間は、周囲から隔絶された異世界を感じさせる独特の空間。

近隣で働く人々の隠れた憩いのスペースになっているようで、まさに町の隙間、ちょっとした隠れ家になっているようでした。

さて、ここで先ほどの交番をあらためて見てみましょう。

交番は小ぶりで平屋の鉄筋コンクリート建造物で、現在は「久松警察署災害用資材置場」という木札が掲げられていました。

現在は交番としては利用されていませんので入口部分の赤色灯は取り外されていますが、よく見ると入り口の廂下に取り付けていた跡がはっきりと残っています。

そしてなによりこの建物を際立たせているのが壁面の装飾です。

側面に横線を配し、それが正面の廂下では放射状になっていて、建物に立体感とリズムを持たせています。

正面の廂もシンプルながら装飾的な肘木を作ることで軽やかさを作り出す工夫が光る建築物。

そして表現主義の影響なのでしょうか、全体的にコンパクトで機能的ながら軽やかでかわいいたてものに仕上がり、見るものに深い印象を与えてくれる小ぶりながらも素晴らしい建築といえるでしょう。

全体に材料や手間をかけることなく少しの工夫でうまくデザイン性を加味している、言い換えると、お金をケチりつつもできるだけかっこいいものにした、といったところでしょうか。

デザイン担当と建設現場の工夫で作り上げた逸品なのです。

ここまで見てきたように、江戸時代後期から明治時代まで商業の一大拠点として繁栄を謳歌した通油町も、現在は町名が失われるとともに、一般的な商業地へと変貌してしましました。

かつてこの地にあった緑橋と繁栄を極めた町の記憶を、小さな交番が唯一、今の時代へと伝えてくれているのでした。

町中にひっそり残る旧緑橋交番の画像。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。

引用文献:『長谷川時雨全集』(日本文林社、1941~42)、『日本橋横山町馬喰町史』有賀祿郎編(横山町馬喰町問屋連盟、1952)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)、『長谷川時雨作品集』尾形明子編(藤原書店、2009)

参考文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)、『大丸三百年史』(J.フロントリテイリング、大丸松坂屋百貨店、2018)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です