前回みたように、昭和初期のガイドブックで喧伝された言問橋と、実際に見た光景には驚くようなギャップがありました。
これからその謎をいっしょに解いてみましょう。
まずはじめは、ガイドブックの謳い文句の意味をちょっと掘り下げる意味で、言問橋が架けられた場所を探ることからはじめたいと思います。
言問橋は台東区花川戸1丁目と墨田区向島1丁目を結んでいます。
橋の名は、『伊勢物語』にある在原業平が隅田川を渡る際詠んだ和歌、「名にしおば いざ言問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと」にちなんだという格調の高さが光る素晴らしいものです。
歌川広重の「六十余州名所図会 武蔵 隅田川雪の朝」(1853)でも描かれる江戸を代表する名所、雪景色と桜で有名でした。
ちなみに、この絵の右下が待乳山晴天と山谷堀で、小さな橋が今戸橋です。
言問橋の位置は、画面の外側すぐ右横にあたっています。
江戸時代、水戸街道が隅田川を渡るこの場所は、「竹屋の渡し」のある場所でした。
「竹屋の渡し」というのが面白いので、すこし寄り道しましょう。
この渡しは、待乳山横の今戸橋際と向島三囲神社脇を結ぶものでした。
江戸の後期頃の話です。
向島側にあった茶店の女将が、今戸側にお客が帰るときに、対岸にあった竹屋という船宿に向かって「タケヤ―」と大声で船を頼んだのですが、その声が透き通ったいい声で、大いに評判となったそうです。
江戸の町の、のどかな空気を伝えてくれるエピソードです。
ちなみに、その光景は歌川広重の「東都名所 隅田川 葉桜之景」にも描かれています。
手前の茶屋から対岸の今戸に声をかける女性が描かれているのに注目!
画面の左端をよく見ると、待乳山聖天の高まりと今戸橋が確認できます。
竹屋の渡しの出発点である今戸橋は、山谷堀が隅田川にそそぐ位置にあって、吉原通いの猪牙舟(ちょきぶね)が頻繁に通る場所。
一方の向島三囲(みめぐり)神社も江戸を代表する桜の名所、墨堤のなかほどにあります。
このように江戸を代表する歓楽地と行楽地を結ぶ竹屋の渡しは、多くの浮世絵に描かれた名勝でした。
ところで、大正時代の歌人・富田木歩の生家がこの竹屋の渡しを営んでいたのですが、これについては機を改めまして。
そしてこの墨堤が現在の隅田公園で、東京を代表する桜の名所としてその名を轟かしていました。
その雰囲気は、歌川広重(初代)の「江戸名所之内 隅田川雨中の花」を見るとよくわかります。
ちなみに、現在の言問橋は画面中央を通ることになります。
言問橋が江戸・東京を代表する景勝地に架けられたことが分かったところで、今度は橋そのものについて見てみましょう。
言問橋は橋長237.7m、幅員:22.0mの三径間の鋼ゲルバー鈑桁橋(橋台部分には、両袖にコンクリート桁が一径間づつと、墨田区側にコンクリートアーチが一径間敷設される四列三連形式)です。
設計は復興局橋梁課の岩切良助、復興局が施工主体となり、橋桁製作を横河橋梁製作所、下部工事を栗原組が担当して大正14年5月に着工年月、昭和3年2月に竣工しました。
総工費2,383,000円、工費単価(総工費を橋長×幅員で割った値):456円/㎡と、隅田川に架かる他の橋(吾妻橋562円、蔵前橋460円、両国橋250円、駒形橋579円、厩橋339円、相生橋357円、清洲橋783円、永代橋718円)と比べるとちょうど真ん中ぐらい、ここでも普通です。
復興事務局編『帝都復興事業誌 土木篇(上巻)』に完成したころの言問橋の写真が掲載されています。
よく見ると、浅草側の袂にはクレーンらしきものが残っていることから、周辺工事がまだ終わっていない頃の写真なのでしょう。
また、橋上には見物人たちと、橋の下には艀が連なっているのが見えて、のどかな雰囲気が伝わってくるようです。
ここまで言問橋を大まかに見てきました。
次回ではいよいよ積年の謎を解くべく、深堀していきたいと思います。
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