前回まで見てきたように、鎧橋は東京証券取引所と共に、華々しい歴史をたどってきました。
今回は鎧橋のその後についてみていきましょう。
明治21年の架設以来、関東大震災や東京大空襲にも耐えた鎧橋ですが、さすがに寄る年波には勝てませんでした。
老朽化によって傷みが激しく使用に支障をきたすようになってしまい、昭和32年(1957)に現在の橋に架け替えられます。
現在の橋は、橋長56.7m、幅23.9mのゲルバーガーダー式鋼桁鉄筋コンクリート橋です。
鎧をモチーフとした現代的なデザインの欄干や橋桁、シンプルでスマートなデザインの橋脚など、半世紀以上前の設計とは思えないほど現代的なデザインです。
最後に、再び谷崎潤一郎の作品を見てみましょう。
「「鎧橋は昔の鎧の渡しと云って、あそこには橋はなかったものだ」と、子供の時分に聞かされたことがあったが、今は下流に茅場橋と云う橋ができ、鎧橋は老朽して取り払われてしまったと言うから、再び私の生まれなかった昔に復った訳である。(筆者註:昭和32年の架け替えの時の話です)
小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町と云い、それに並行した次の通りを裏茅場町と云っていた。表茅場町の通りを南へ一二丁行くと、右の角に濤川と言う自転車や乳母車などを製造販売する店があったが、そこを曲がって裏茅場町の通りへ抜けたところの、東北の角が勝見と言う袋物家で、その向こうの東南の角からの東へ2軒目が私の家であった。」【谷崎潤一郎『幼少時代』】
新しい鎧橋が完成して間もない昭和38年(1963)には、首都高速道路が日本橋川上を高架道路で作られて大きく景観が変わってしまいました。
現在は橋の横に鎧をモチーフとした可愛いトイレも作られました(写真参照)。
季節の花々も咲き誇って、近在の企業戦士たちの隠れたオアシスとなっています。
江戸時代の護岸石垣、その上に明治11年の石垣、それを利用した明治21年のレンガ積橋脚。
積層するこの橋の歴史が、一部とは言え、関東大震災や東京大空襲を生き延びて三つの世紀をまたいで永らえ、現在も車交通を支えている、という事実は驚異的です。
人々の暮らしや経済を足元から支えて未来を生み出す姿は、まさに「橋が町を造る」といえます。
そして、私たちの過去だけでなく未来をも支えるこの橋の姿に、私はただただ脱帽するのでした。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社
次回は昌平橋です。
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