東郷平八郎に学ぶ人生の引き際

5月30日は、昭和9年(1934)日本海海戦で日本を勝利に導いた海軍元帥・東郷平八郎が亡くなった日です。

そこで、東郷の生涯を振り返りながら、現代へのメッセージを探ってみましょう。

イギリス留学まで

東郷は、弘化4年(1847)12月22日に薩摩国鹿児島郡下加治屋郷、現在の鹿児島市加治屋町で、父は薩摩藩士東郷吉左衛門、母益子の四男として生まれました。

17歳で薩英戦争に参加したあと、維新戦争に鹿児島藩の軍艦「春日」乗組員として参戦し、阿波沖海戦、宮古湾海戦、箱館湾海戦で幕府軍と戦いました。

東郷平八郎(明治2年3月、23歳、「春日」乗艦三等士官)(『東郷平八郎全集 第2巻』小笠原長生 編(平凡社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東郷平八郎(明治2年3月、23歳、「春日」乗艦三等士官)(『東郷平八郎全集 第2巻』より)】

その後、明治政府のもとで、竜驤乗組員となりますが、新設された海軍兵学寮に年齢超過で入学できず、明治4年(1871)からイギリスに留学します。

ケンブリッジとポーツマスなどで語学を学んだあと、商船学校の練習船ウースターに乗り込み、明治7年(1874)12月に卒業しました。

英艦ハンプシャーで遠洋航海に参加し、日本がイギリスに発注した軍艦建造を監督したあと、完成した軍艦比叡に乗って明治11年(1878)5月に帰国したのです。

比叡(『黄海激戦名誉軍艦写真 附・各館操縦顛末』潮涛外史(金桜堂、明治27年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【比叡(『黄海激戦名誉軍艦写真 附・各館操縦顛末』より)】

巡洋艦浪速艦長

帰国後はいくつかの軍艦で勤務を経て明治19年(1886)5月に新造国産巡洋艦大和艦長となり海軍大佐に進むものの、健康を害して病気療養に入りました。

全快のあと、呉鎮守府参謀長、巡洋艦浪速の艦長を歴任。

ハワイ革命では、明治26年(1893)2~5月に、居留民保護のためにハワイに赴きました。

呉鎮守府兵団長を経て、日清戦争開戦時には再び浪速の艦長に赴任。

浪速(『黄海激戦名誉軍艦写真 附・各館操縦顛末』潮涛外史(金桜堂、明治27年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【浪速(『黄海激戦名誉軍艦写真 附・各館操縦顛末』より)】
東郷平八郎(明治27年、48歳「浪速」艦長時代)(『東郷平八郎全集 第2巻』小笠原長生 編(平凡社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東郷平八郎(明治27年、48歳「浪速」艦長時代)(『東郷平八郎全集 第2巻』より)】

開戦直後の豊島沖海戦では、清国兵を輸送中のイギリス商船高陞号を国際公法にもとづいて撃沈し、一躍有名になりました。

明治28年(1895)2月、少将に進んで常備艦隊司令官となり、澎湖島占領作戦に参加。

戦後は、海軍大学校長、佐世保鎮守府・常備艦隊・舞鶴鎮守府の司令官を歴任して、明治31年(1898)5月に海軍中将、明治37年(1904)6月海軍大将に昇進しています。

日本海海戦

明治36年(1903)12月から連合艦隊司令官就任に就任すると、日露戦争では全期間にわたってみずから主要作戦の指揮を執り、ロシアの旅順艦隊に対して3次にわたる閉塞作戦と8次にわたる港口攻撃を行いました。

また、ロシア旅順艦隊出動の際には、明治37年(1904)8月10日の黄海海戦で勝利し、旅順陥落とともにロシア旅順艦隊を撃滅します。

このあと、上京して軍状奏上のあと、バルチック艦隊の東征に備えて、東郷は連合艦隊の全艦艇の整備、休養、訓練を行って、鎮海湾を主基地として待機しました。

そして明治38年(1905)5月27日から28日にかけての日本海海戦では、強力なリーダーシップを発揮して連合艦隊を率い、歴史上類をみないほどの大勝利をおさめたのです。

日本海海戦〔部分〕(『日本海海戦第二十五周年を迎へて』海軍省-編集・発行、1930 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【日本海海戦〔部分〕(『日本海海戦第二十五周年を迎へて』より)】
東郷平八郎と乃木希典(明治44年加茂丸船上にて)(『東郷平八郎全集 第2巻』小笠原長生 編(平凡社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東郷平八郎と乃木希典(明治44年加茂丸船上にて)(『東郷平八郎全集 第2巻』より)】

こうして将帥としての東郷は、人格と統率力に優れ、イギリスのネルソン提督と並び称される救国の英雄として、国内外から称賛と尊敬を受けました。

晩年

戦後は、海軍軍令部長と軍事参議官を歴任し、明治40年(1907)9月には伯爵を授けられ、大正2年(1913)4月には元帥となります。

その後、大正3年(1914)から大正10年(1921)まで、東宮御学問所総裁に就任しました。

東宮御学問所総裁としての職務を重視した東郷は、存続期間中は全力でこれを務め、日常の態度から手本を示すことで東宮、のちの昭和天皇の人格形成に大きく貢献したのです。

前列右:小笠原長生中将、東郷平八郎元帥(大正9年3月撮影)(『東郷平八郎全集 第2巻』小笠原長生 編(平凡社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【前列右:小笠原長生中将、東郷平八郎元帥、後列右:太田元帥副官、山崎直方博士(大正9年3月撮影)(『東郷平八郎全集 第2巻』より)】

そして東宮が成人し、東宮御学問所が廃止となると、東郷は元帥としての責務に力を注ぎました。

元帥は、明治31年(1898)1月の元帥府設置の詔によって天皇の最高軍事顧問とされ、元帥会議に出席して天皇の下問に答えることを職務とし、社会的には軍人の頂点を極めた重い存在とされていました。

この元帥会議に、東郷は小笠原長生中将(子爵)を右腕として臨み、下問に対して小笠原を代理として関係者を回って意見を集約し、これを参考に回答していきました。

当時の元帥会議は海軍からは井上良馨と東郷の二人で、陸軍からは宮家を除くと上原勇作が参加してまたが、上原が射撃の衝撃波による極度の難聴で職務を果たせなかったのです。

このため、井上が亡くなると、東郷一人の意見がそのまま元帥会議の意見となり、政府や軍に重圧をかけることになりました。

こうした状況で、東郷はロンドン海軍軍縮条約に反対し、海軍内に「艦隊派」と呼ばれるグループを形成したうえに、平沼騏一郎を中心とする国家主義者集団と同盟して協調行動をとるようになっていきます。

そして、陸海軍の人事に介入したのをはじめ、ときには首班指名や予算編成にまで影響を及ぼし、陸軍の作戦にも口を出しました。

さらに、五・一五事件の実行者に対する減刑運動を策動し、マスコミを巻き込んで国民的運動にまで仕立て上げて、大幅な減刑を勝ち取ったのです。

東郷平八郎元帥(昭和5年5月27日撮影)(『東郷平八郎全集 第3巻』小笠原長生 編(平凡社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東郷平八郎元帥(昭和5年5月27日撮影)(『東郷平八郎全集 第3巻』より)】

このように、昭和の東郷は、過激な国家主義者平沼騏一郎と盟友関係を結ぶ一方、国家主義思想に深い理解を示して同調していきました。

この行動は、自己の利益を目指すものではなかったのは間違いありません。

しかし、東郷が、信念に基づいてとった行動を、軍が利用することで、日本を滅亡へと導いたのは疑う余地がありません。

そして東郷は元帥として現役のまま、昭和9年(1934)5月30日に東京で死去、享年88歳でした。

東郷ほどの卓越したリーダーシップと決断力をもってしても、あきらかに晩年は大きな誤りを犯してしまいました。

人生の引き際とは、なんとも難しいものなのです。

東郷平八郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【東郷平八郎(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は『東郷平八郎』ちくま新書、田中宏巳(筑摩書房、1999)、『東郷平八郎のすべて』岩田玲文ほか(新人物往来社、1986)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月29日

明日(5月31日

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