前回は津山松平家が入封する前の、森家津山藩の時代を見てきました。
そして前々回、元禄11年(1697)に松平宣富が美作国のうち10万石を領して津山藩主となり、松平家津山藩が誕生するところも見たところです。
今回はいよいよ津山松平家の津山藩を見ていきたいと思います。
越前松平家筆頭として
ここで越前松平家についておさらいしておきましょう。
越前松平家は徳川家康第二子結城秀康からはじまる名家で、親藩中御三家に次ぐ家格とされていました。
津山の松平家はこの越前松平家の筆頭を自認していましたので、越前松平家で最大の石高を誇った福井松平家をライバル視して、石高は半分以下であるにもかかわらず、なにかと張り合おうとします。
「すなわち越前松平家は秀康の次男の系統であり、津山松平家は秀康の嫡男の血筋ということになる。だから津山藩は福井藩に対して強い本家意識をもっていた。しかし、石高では越前が上であり、江戸城の下馬先序列でも一番前田、二番越前、三番津山とされていた。」(『華族総覧』)
このことを踏まえて、今回は松平家津山藩の170年間の歴史を見ていきたいと思います。
高倉騒動
まず、領国に入った宣富は石高を決定するために領内総検地を行いますが、ここではやくも高倉騒動と呼ばれる大規模な農民一揆がおこります。
一揆の原因は、より石高を多く見せようと画策したことにあるようで、福井藩に石高を近づけたいというねらいが垣間見えます。
津山藩は山がちの地形で農地が広くないことなどから、もともと藩運営が難しいところに福井藩に対抗すべく見栄を張って支出が多いこと、さらに藩上層部の不正があって藩財政がはやくも窮乏したのは当然の成り行きかもせれません。
松平浅五郎(まつだいら あさごろう・1716~1726)
その後、享保6年(1721)、宣富の急逝に伴って長子の浅五郎がわずか6歳で家督を継承すると、またもや藩財政改善のために農民負担を増加させる政策を強行します。
すると、やはり藩内全土で山中騒動とよばれる大規模な農民一揆が発生してしました。
さらに悪いことに、この一揆の混乱の中で享保11年(1726)に浅五郎が急死、後嗣がなかったために急遽初代藩主宣富の弟松平知清の三男を迎えて家名存続を図ろうとします。
松平長凞(まつだいら ながひろ・1720~1735)
末期養子どころか藩主が亡くなってからの養子縁組ですので、本来なら当然御家断絶となるところですが、逆に幕府が御家断絶を避けるため、享保11年の浅五郎急逝から間もなく初代藩主宣富の弟松平知清の第三子長凞の家督相続を許可、ただし石高を半分の5万石としたのです。
この三代長凞から四代長孝(ながたか・1725~1762)、五代康哉(やすちか・1752~1794)、六代康乂(やすはる・1786~1805)、七代斉孝と続きますが、藩政改革を試みるも失敗する状況が続きました。
松平斉孝(なりたか・1788~1838)
この完全に行きづまった状態を変えたのが七代斉孝です。
藩政改革路線を変更して、文化9年(1812)に美作・備中両国の天領のうち四万七千石の地を預かり支配することに成功したのです。
さらに、文化14年(1817)に第十一代将軍家斉の十四男銀之助を養継嗣子に迎えて五万石の加増を受け、十万石に復したうえ、預かり地を合わせると実質十四万七千石の大身となりました。
斉孝のすごいところは、将軍家から銀之助のちの斉民を養子に迎えた折、慶倫を除いて八人の男子を全員出家させています。
慶倫は残したというよりも、斉民が藩主となった後に生まれたのですが、ひょっとすると数多い将軍家斉の子に夭折するものが多かったことも考えていたのかもしれません。
しかし、このことが後々トラブルの種となってしまうのです。
こうして石高倍増で息を吹き返した津山藩は、いよいよ黄金期を迎えることになりました。
次回は名君の呼び名高い八代目藩主松平斉民の時代を見ていきましょう。
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