前回は勝山藩をゆるがした大杉沢騒動から、勝山における封建制度のほころびをみてきました。
そこで今回は、越前勝山藩小笠原家、最後にして最大のチャレンジ、林毛川の藩政改革をみてみましょう。
天保の大飢饉
前回みたように、勝山では封建制にあちこちほころびが生じていました。
これに輪をかけたのが、天保の大飢饉です。
天保4年(1833)から7年(1836)にかけて、大風雨、洪水、冷害によって、全国的に不作が続いたことで起こった飢饉で、享保、天明と合わせて江戸三大飢饉とよばれています。
この飢饉によって、大坂では大塩平八郎の乱がおこるとともに、全国各地で一揆や打ちこわしが続発、幕藩体制に深刻な打撃を与えて、その衰退を一気に進めたことでも知られています。
この危機に、幕府では老中水野忠邦が幕府の威信回復を目指して天保の改革を行ったのはご存じの方も多いのではないでしょうか。
うち続く災害
さて、この時期は勝山でも深刻な災害が続発しました。
天保4年(1833)は雨が続き冷害、翌5年(1834)は旱害のあと台風に襲われ、6年(1835)は秋に冷え込みが早く大雪、7年(1836)は雪解けが遅く田植え時に洪水にくわえて冷害と、自然災害が連続したのです。
このため、飢饉が蔓延したうえに病気がはびこって、特に天保7年(1836)から8年(1837)にかけては餓死者が続出する惨状となってしまいました。
米の価格は平年の3倍近くにまで跳ね上がり、人々は木の根や草の葉を食べて飢えをしのいだものの、天保8年(1874)には勝山の町だけで飢えにより800人以上が亡くなっています。
農村の疲弊
農村は荒廃し、下層貧民が町にあふれかえり、藩財政は極度に悪化、飢えた人々が米屋を襲う騒動なども起ってしまいました。
こうして社会不安が深く広がって、人々の不平不満は爆発寸前となっていたのです。
林毛川登場
そんななか、天保11年(1840)5月2日、幕府で若年寄まで務めた藩主・長貴が病没し、その子長守が7歳で家督を継ぎました。
そして長貴は死の直前に、40歳の若き英才・林毛川(芥蔵)が家老に就任させます。
毛川は幼い藩主に代わって藩政を掌握し、藩政を改革することで、この危機を乗り越えようとしたのです。
藩政改革の方針
毛川が考えた改革は、以下のものでした。
藩主は幼少で借財は膨大である。
そしてワイロで藩政を歪めている「豪商姦民」を抑えるため、強固な藩の支配権力を確立する必要がある。
そのためにはまず、人材登用を行うべきで、優れた人材によって理非曲直を糾し、下役人の威勢を抑えることができる。
すると、自然と民政が正され、武士を鑑として町の風俗も改められるはずである。
藩校・成器堂の設立
まず手始めに、毛川は人材登用にために藩校「成器堂」を設置します。
藩医の秦魯斎の尽力によって、弘化4年(1847)には全校舎が完成するまでになりました。
また、成器堂は城下72人の富商が180両を調達して、なんとか完成に至ったので、彼らや有力農民の子弟も入学を許しています。
こうして寄宿生20人、通学生100人ほどの生徒が集まって、武士のみならず庶民の中にも学問興隆の風が強まり、武術も盛んとなって、進取の気風がみなぎるまでになったのです。
また藩は、隣接する大野藩や福井藩にならって、江戸・大坂・長崎への遊学を奨励しました。
その結果、大坂・緒方洪庵の適塾に入門するものや、江戸・千葉周作道場の塾頭となった鈴木定七のような人物が現れる成果がでてくる成果が表れたのです。
勝山藩最後の切り札ともいえる逸材・林毛川の登場で、不可能とも思えた藩政改革がはじまりました。
次回は毛川による藩財政改革のかなめ、産物改会所についてみていきましょう。
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