前回は、柳川藩下谷御徒町上屋敷跡を歩いてみてきました。
そこで今回は、さらに詳しく柳川藩上屋敷についてみていくことにしましょう。
災害
江戸の町に多かった火災は、この下谷藩邸にまで及んでいました。
ここで藩邸の火災に関するものを年代順にあげてみましょう。
元禄11年(1698)江戸下谷邸類焼、翌12年再建。
正徳5年(1715)3月27日、江戸下谷邸類焼により参勤途上の藩主鑑任は特免を蒙り帰国。
安永元年(1772)2月、江戸大火で上・中屋敷共類焼し、安永2年8月1日幕府より災害復興のため恩貸金5,000両を十年年賦で借り入れる。
安政3年(1856)2月11日、江戸下谷邸類焼。11月、幕府は柳川藩に1万両を貸与する。
また、安政の火災直前の安政2年(1855)10月2日、安政江戸地震では建物が倒壊して多くの被害を出しています。
藩邸建築
藩邸の土地は幕府から下賜されましたが、その建設費用は各藩が負担しましたので、こうした災害は藩財政のおおきな負担となったのはいうまでもありません。
さらに藩の財政が悪化していた安永と安政の火災では、幕府から資金を借り入れざるを得なかったのです。
また、江戸藩邸は諸大名や江戸っ子たちが見るわけですから、たとえ金銭的につらくとも、見栄えのする立派なものをつくる必要がありました。
一例をあげると、鑑賢治世の下谷藩邸新築では、柳川の伝説的大工頭・宗吉兵衛を柳川から上京させて大工頭を務めさせています。
藩主の死去
参勤交代により、藩主は多くの時間を江戸で暮らすことになります。
そのため、江戸で死去することもありました。
初代の宗茂は、隠居後の寛永19年(1642)11月25日に柳原にあった藩邸で死去したのをはじめ、
延享元年(1744)5月25日、五代藩主貞俶。
文政3年(1820)4月29日、八代藩主鑑寿。
天保元年(1830)4月11日、九代藩主鑑賢。
天保4年(1833)2月19日、十代藩主鑑広。
なかでも、11歳で亡くなった藩主鑑広には幼少で世子がなかったため、喪を秘して邸内に仮葬し、弟の鑑備が兄の幼名安寿丸を称して兄に成りすましたのは、第35回「藩主なりすまし事件」でみたところです。
仙台奧さん
このように、長い藩邸の歴史の中で特筆すべきは、「仙台奧さん」こと鍋子の嫁入りでしょう。
正保2年(1645)2月4日、将軍家光の口利きで二代藩主立花忠茂と先代藩主伊達忠宗の娘鍋子との婚礼が行われました。
鍋子は将軍家光の養女として忠宗の後室に入ったのです。
ところが忠宗は、小藩柳川への、しかも後妻ということが気に食わなかったのかもしれません。
輿入れの前日に、娘の調度の品々を個々の長持にわざと分散して、なんと150棹もの長持ちを連ねて江戸下谷の藩邸に運び込ませました。
どうやら手狭な下谷邸に花嫁の調度を藩邸に収めきれない150棹も持ち込むことで、立花家を一泡吹かせようとの魂胆だったようです。
小田部鎮孝の秘策
この婚儀の御用掛を務めた小田部鎮孝は、伊達家の長持ちの行列をみて秘策を練ります。
長屋に住む者から出入りの職人や八百屋、魚屋まで声をかけて動員し、荷車12台を用意して待機させました。
そして今野敏十郎を使者とする伊達家花嫁持参の調度が下谷の立花家表門に到着すると江戸家老十時太左衛門惟寿がこれを表門で出迎えます。
いっぽうこの時、小田部は裏庭に陣取って表門から運ばれる長持ちをいったん開いて中のものを取り出すと、広縁にずらりと並べさせました。
もともと長持ちにはわずかしか中に入っていませんので、今度は空になった長持ちを裏門から外に運ばせたのです。
こうして空の長持ちを担ぐもの、あるいは荷車の載せたものが、まるで蟻の行列のように半里ほど離れた下屋敷まで延々と続いたといいます。
さらに小田部は、これらの調度品を、赤、白、黒それぞれ10頭もの奥州駒を飾り立てて、曳き馬として東海道、山陽道をはるか西へ三百里、柳川まで運ばせたといいます。
これで、伊達家もこれで面目が立つ、柳川藩の名はあがるという小田部の素晴らしい差配ぶり。
こうして「仙台奥さん」の嫁入りが滞りなく済み、のちのちまでわらべ歌で謳われることとなりました。
如意庵
かつての藩邸内をうかがわせる逸話をもう一つ見てみましょう。
かつて邸内に設けられた庭園に「如意庵」という一亭があったそうです。
天保2年(1831)2月5日、ここで柳川藩の儒者だった牧園茅山(まきぞの ぼうざん)は江戸で高名な池田冠山、岡本花亭など同年齢の詩人・雅客10名を招いて、「同庚会」を設けて詩を交わし、酒を酌み交わしています。
残念なことに、現在は庭園の痕跡は全く残らず、如意庵の場所もわかりません。
ここまで柳川藩下谷御徒町上屋敷跡についてみてきました。
そこで次回は、柳川藩上屋敷跡の西部分にあたる立花伯爵家下谷邸についてみていくことにしましょう。
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