前回は、柳川藩浅草末下屋敷の守り神だった太郎稲荷神社をみた後、屋敷跡を歩いてきました。
そこで今回は、下屋敷について改めてみてみましょう。
柳川藩浅草下屋敷
『江戸幕藩大名家事典』所収の「武家屋敷名鑑」によると、寛文元年(1661)以降、幕末に至るまで拝領下屋敷は浅草末、敷地は安政2年(1855)で12,970坪2合の規模でした。
これに、「浅草下屋敷西之方道式狭候間百姓地面借置、道敷に致置」坂本村の借地60坪が付随しています。
ここで、屋敷が作られる前のこのあたりを「正保元年江戸絵図」でみてみると、一面が真っ黒に塗られていて、一帯が湿地だったことがわかります。
このことを裏付けるものとして、『浅草区誌』「光月町」の項をみてみましょう。
「町の西北に蓮池あり、是古へ沼の痕跡なりと、北方を左近原と云ふ、立花左近将監邸地なりし故なり、本町は区内に於て標高最も低く土地卑湿なり」
これを見ると、明治になっても、まだあたりが低湿な場所であった様子が見て取れます。
これは私の推測ですが、江戸がどんどん拡大する中で、江戸の町にほど近いこの場所にあった低湿地を、幕府は何とか開発したいと目論んだのではないでしょうか。
そこで、領国に低湿地が多く、そのような場所を開発する技術と豊富な経験を持つ柳川藩に土地を与えて開発させたと考えられます。
幕府の期待通り、柳川藩は領国で行ったように大きな堀割をつくって排水するとともに、その土を盛って藩邸を作り上げたのです。
じっさい、「今戸 箕輪 浅草絵図」で柳川藩浅草下屋敷をみると、周囲に溝を巡らせたうえ、南には堀割が作られているのがわかります。
この堀割は、蔵前から延びる新堀川の終点部分にあたっているので、排水のみならず、舟運の便にも配意したものだったのです。
こうして作られた柳川藩下屋敷は、舟運の便を生かして倉庫の役割を果たしたのかもしれません。
また、災害や建て替えなどによって上屋敷が使用できないときには、その代わりを果たしたとみれます。
仙台奧さん
ここで下屋敷についての逸話をみてみましょう。
正保2年(1645)2月4日、将軍家光の口利きで二代藩主立花忠茂と先代藩主伊達忠宗の娘鍋子との婚礼が行われました。
その輿入れの前日に、忠宗は嫌がらせをするのですが、これを婚儀の御用掛を務めた小田部鎮孝がみごとに解決したのです。
この時には下谷の上屋敷から半里ほど離れた下屋敷まで、荷を運ぶ人がまるで蟻の行列のように延々と続いたといいます。
なお詳しくは第59回「柳川藩上屋敷と立花伯爵下谷邸跡を歩く・中編」をご覧ください。
柳川藩下屋敷の廃絶後
明治4年(1871)11月に、廃藩置県により上京を命じられた最後の藩主・立花寛治は、柳川藩上屋敷を下賜されてここに移ります。
この時、柳川藩の中屋敷と下屋敷は上げ地され、いずれも町地へと変わりました。
光月町
光明町は、正保2年(1645)鳥越町の代地として給された新鳥越町4丁目飛地を、明治3年に改称して生まれました。
町名は、近くにある東光院(西浅草3丁目)から「光」字を、灯明時(北上野2丁目)から「明」字のつくりをとって組み合わせて作ったといわれています。
そして明治5年(1872)に柳川藩下屋敷跡は、この光月町に編入されたのです。
光明町は、成立当初は東京府、明治11年(1878)からは浅草区に属しました。
ところが、もともと光月町だった部分が明治24年3月(1891)に松葉町に編入されると、光月町は全域がかつての柳川藩下屋敷となったのです。
そして昭和18年(1943)には、町域の西部分が下谷区に編入されて、下谷区光月町と浅草区光月町に分割されてしまいます。
その後、昭和22年(1947)に下谷区と浅草区が合併して台東区が成立すると、再び統合されました。
しかし、昭和40年(1965)には再び分割されて、西部が入谷2丁目、東部が千束2丁目という現行の状況になったのです。
このように、住所表記が変遷した光月町ですが、関東大震災と東京大空襲で大きな被害を受けたこともあって、藩邸時代にまでさかのぼる遺構はほとんど見られません。
それでは、帰路につきましょう。
大正公園に接して東西に走る金美館通りを西に進みます。
およそ300m進むと、昭和通り国道4号線に出てきました。
交差点を北に向かうと、すぐに東京メトロ日比谷線入谷駅の3番出入口に到着、ここがゴールです。
今回の散策では、柳川藩下屋敷に関連するものとして、太郎稲荷神社をみることができました。
また、屋敷跡が街区にはっきりと残る様子も確認できたのも大きな収穫といえるでしょう。
コース近くには、散策中に触れた朝顔市で名高い入谷鬼子母神(正しくは「鬼」字の最初の払いがない文字)、酉の市で知られる鷲(おおとり)神社、さらにその隣の新吉原遊郭あとなど、特徴的な名所が散在しています。
また、一葉桜通りを100mほど南に行けば、道具街として有名な合羽橋商店街です。
もし余裕のある方は、こちらを訪ねるのも楽しいかもしれません。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『浅草区誌』上・下巻、東京市浅草区 編(文会堂書店、1914)
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
「柳河藩」半田隆夫『三百藩主人名辞典』第四巻、藩主人名辞典編纂委員会 編(新人物往来社、1986.10)
「柳河藩」半田隆夫『三百藩家臣人名辞典』第7巻、家臣人名辞典編纂委員会 編(新人物往来社、1989.10)
『江戸幕藩大名家事典』中巻、小川恭一 編(原書房、1992.3.7)
『台東区史 通史編Ⅱ』台東区史編纂専門委員会 編(東京都台東区、2005.1.31)
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